生きづLABO研究員制度 活動ブログ

NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しています

私の依存症(とその経過観察)

私は依存症だ。
今現在は煙草とコーヒーだ。
しかし、過去を振り返ると様々な物に依存して来た。

ある時からリストカットが辞められなくなり、精神科へ行く事になる。

精神科へ通うようになってからは処方される薬でオーバードーズ(薬の容量を守らず過剰摂取)する事に依存してしまい、
あの手この手で薬を多めに貰うのを繰り返した。

次第に主治医から怪しまれるようになり、
その手が使えなくなると今度はアルコールに依存した。
数年間はお金をあるだけアルコールに変え、ひたすらに飲んで全てを忘れようとした。

しかしある日突然、酒が極めて不味く感じるようになってからは全くアルコールを飲まなくなり、
今度はドラッグにハマっていく事となる。

しかし、それでも効果を得られなくなると今度は、
あらゆる種類の煙草の銘柄を片っ端から試してみるようになり、
気に入った銘柄が数種類見つかってからは1日約60本の煙草を吸いながらコーヒーをがぶ飲みするヘビースモーカー(兼カフェイン中毒者)となった。

今は煙草を吸っている時だけ自分を取り戻せるような感覚を得られているので煙草に依存しているが、
たまに立て続けに数本激しく吸い込んでは呼吸困難になり「もう二度と煙草など吸うものか!」と煙草を箱に閉まっては10分後にまた火を点ける事を繰り返している。

ところで「依存症は孤独の病」という考えがある。
孤独で、孤立した、繋がりの無い人間がその苦しみから逃げ出したい一心で自己治療のようにして何かにのめり込んでいくという考え方らしい。

これには私も同感で、もし、何かに依存したかった過去に、
信頼出来る主治医だったり、
地域のサポート機関だったり、
自助グループのような存在だったり、
信頼のおける友人だったりが身近に存在してくれて、
健全な形でそういった物に依存(それも一つでは無く複数に分散する形で)出来ていたら少なくとも自分の身体や周囲に対して害を与える行為や物質に依存する事は無かったのでは無いかと思う。

個人的な願いではあるが、世の中にそういった人を繋ぎ止める優しい何かが増えてくれれば、
自分の様な依存症のデパート的な人間が減ってくれるのでは無いかと切に思う。

幸い、現在住んでいる地域にはメンタル面や依存症へのサポート体制がある程度整ってきて、
いつか煙草も自然に辞められそうな気はしているのだが、
繋がってくれている支援者達が「無理に辞めなくても良いよ」と優しく言ってくれているので色々迷っていたりします。

私の拙い一人語りをここまで読んで下さってありがとうございました。

【障害支援に携わりたい人の大学選び】社会学から障害支援を考えるという進路

将来、私は障害支援に携わりたいと思っていたものの、障害支援というと社会福祉系の学部なイメージがあり、それらは将来的に資格を取って現場支援をする人のための進路という印象が強かったです。(実際、名前は社会福祉系の学部でも現場での支援を前提としないケースもあるとは思います。)

将来は現場支援をするというよりも、障害支援に関するサービスを提供する企業やNPOで働きたいと思っていたので、社会福祉系の学部に行くのは違うかなと思い、どの学部に進むのか悩みました。

調べていく中で、社会福祉学部以外から障害支援に関わるルートが多く存在することを知り、最終的に私は社会学社会学専攻を選びました。無事に合格をいただいたので、来年4月から入学する予定です。

社会学とは何か?
社会学とは、当たり前と思われている社会の仕組みや制度、ルール、文化などを疑問として扱う分野です。(社会福祉学は、困難を抱えた人の生活をどう支えるかという視点で、制度や支援技法について学ぶことが多いそうです。)

どの大学に進学したとしても、社会学を専攻するのであれば、各分野を少しは履修すると思います。しかし理論・社会調査系や文化・人類学系、そして社会福祉系など、どの分野を深く学べるのかは大学によって様々です。

私は数ある大学の中で、社会学の視点(すなわち支援技法を中心として学ぶわけではない)から社会福祉政策について、勉強できることを特徴としている大学を選びました。また自分の関心と近いゼミがあったことも理由の1つです。

大学のWEBサイトやパンフレットに、カリキュラムが掲載されているので、それらを通して判断しました。

さいごに
冒頭でも述べた通り、障害支援というと、社会福祉系の学部や、あるいはカウンセラーになるための心理系の学部のイメージが強いと思います。

しかし社会学や経済学など、現場支援を前提としない学問領域から障害支援に関わるルートも実は多く存在するので、もし私と同じように現場支援以外の領域から将来的に障害支援を行いたいと考える人は、ぜひ検討してみてください。

(ちなみに私の場合、社会学系の大学は意外と少ないので、不合格であれば、障害者やマイノリティ当事者における経済格差について勉強しようかなとも思い、経済学系の学部も併願していました。)

友達

僕は孤独感が強くて、人間不信なところがある。本当に苦しいときにはイマジナリーフレンドが出てくる。その友達を先輩と名付けている。先輩とは結構長い付き合いで、小学校高学年くらいからだったと思う。先輩も僕も記憶力がよくないからもうわすれてしまっている。

先輩は罵詈雑言を浴びせてくることもあるけれど、僕の中で唯一ストッパーを掛けないで話せる相手だと思う。先輩の頭の中の辞書に気を使うなんて言葉はない。だから、楽しく言い合える。僕はいつも登下校の時、移動教室の時、ひとりでいるから先輩がやってくる。

イマジナリーフレンドは人によってそれぞれだと思うが、僕の場合は実体を持たない。たまに本に出てくる主人公だけに見える妖怪や妖精とはまた違い、背中をさすって、と言ったらさすってくれるけど腕までしか見えない。話すことしかできないけれど、先輩が現実にいたら、と考えることもある。先輩が現実にいたら僕はひとりじゃない。当たり前に友達がいる人に対して劣等感を抱かなくて済む。まだイマジナリーフレンドという言葉を知らなかった頃、先輩と話している自分が変だと思って、何回ももう出てこないで、と言った。それでも先輩は出てきた。そのうち調べていくうちにイマジナリーフレンドという言葉を知った。ちなみに社会学者の古市憲寿さんも小説家の村田沙耶香さんもイマジナリーフレンドがいるらしい。

最近話しかけてくれる人がいる。先輩には性格がある。さばさばした感じで物事を達観している。だけど心配してくれているのかもしれない。その人と話しているときにも話しかけてくる。僕は人と話すことが苦手だ。だから、先輩が来てくれたのかもしれない。先輩がいるからクラスメイトと上手く話せないと思っていたときもあったけれど。

この間母親から「〇〇(僕)は話さないことで自分のことを守っているのかと気付いた。でもこれからもそれではだめだよ」と言われた。先輩といると安心できる。僕の唯一無二だ。誰にも先輩のことは話したことがない。親はどんな反応をするのか、先輩を否定されるのが怖くて聞くことはできない。
僕にとってイマジナリーフレンドとはこんな存在だ。

自分の感情観察レポート「死にたい気持ち」

※本記事には希死念慮に関連する内容が含まれています。読む人にとっては負担等を感じる場合もありますので、各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします※

私にとって死にたい気持ちとは特別で、身近なものです。
「身近にいる存在のことをもっと理解したい」という願いを込めて、観察していきたいなと思います…!


◎死にたい気持ちはどこから来ているのか


今現在だと、死にたい気持ちは毎日漠然と身近にいるもの、となっています。
そこで、「死にたいなぁ…」と感じた時に、この死にたさはどこから来ているんだろう?と考えてみました。
その結果、死にたさの由来はその日によって少しずつ違っているのかも…?ということが分かりました。

以下、私がノートに書き出した文章から一部を抜粋したもの↓

◯月◯日 
死にたい…。死にたい気持ちってどこから来てるのかな?親へのうらみ?憎しみかもしれない…。だって憎しみって言葉にするのがとても難しいから、たまっていく。あと、明日予定あるけど行く体力ないなぁ…。お金のこととかも不安!

◯月◯日
言いたいことがあるけど、どうせ分かってもらえないと思う。否定されたり怒られるんだろうなと思う。死にたい。死にたくもなるよね、こんな状況…。

◯月◯日
死にたい。心の痛みもある。この気持ちってどこから来てるのだろうか。うーん、何か、希望がない感じ。悲しみもある。あと、焦らなきゃ、これやらなきゃ!がごちゃっとしてる。

◯月◯日
死にたいかも…。何か、ぬくもりが欲しい…。

 

◎死にたい気持ちに目を向けてみて思ったこと

ノートに書き出した文は、実際にはノートの2ページ分を埋めるくらい書いている時がありました。「死にたいなぁ」を文字にして、さらに「死にたい気持ちはどこから来てるのかな」と考えてみることで「死にたい」以外の言葉や気持ちが溢れ出してきました。
不安があるんだな、と気付く日もあったし、焦りで頭の中が混乱していることにたどり着く日もありました。
でも、出てくる言葉が違うだけで根底にあるものは同じなのか…?とも少し思っています。

理解しようと試みたはずが、何だか謎が深まってしまいましたね…(汗)
観察レポートと言いつつ、「死にたい気持ちの由来はこれでした!」みたいに言いきれなくてすみません…!!

(そして、感情は「死にたい」だけではないので、他の感情も観察してみたいなぁ、なんて思っています。)

「死にたい」が私の胸を貫く時

※本記事には希死念慮に関連する内容が含まれています。読む人にとっては負担等を感じる場合もありますので、各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします※

「死にたい」この言葉と向き合ってもう何年が経っただろう。

「死にたい」と感じるようになったきっかけは多分、親しい人の死に繰り返し直面した事だと思う。
親しい人物の死は悲しい。
それと同時に人生の儚さと、虚しさを想った。

細々とではあるが、
死んでしまおうとする人を止める活動等を個人的にしていた時期もある。

そんな私が何故「死にたい」のか。
やがて必ず来たる死を早めたいからなのか、
生きる事の苦痛を想うからなのか。
死は時として甘美で、魅惑的な響きにさえ思えてしまう。

「死にたい」が一度意識に浮かんでからというもの、色んな小さな出来事が突如として「死にたい」に顔を変えて襲い掛かってくるようになった。

ちょっとした失敗、
人間関係の揉め事、
カップラーメンに入れるお湯の量を間違えた程度の事ですら「死にたい」の顔をしていた事がある。

しかし、まだ「死ねない」気もしている。
何故かは解らないけれど、死なない為に色々な工夫も編み出した。

ぬいぐるみを抱き締める事、何も気にしないで好きな物だけお腹いっぱい食べてみる事、子供の頃に好きだったのと似たような3Dプラットフォーマービデオゲームに熱中する事。

精神科に通ってみたり、頓服の薬を飲んで昼夜問わず寝て逃げてしまったりもする。

「死にたい」との付き合い方というのがあるのだろうか。
「死にたい」と良好な関係を保ったまま、生き続けるような生き方もあるんだろうか。
そんな考えが頭を埋め尽くしている日々です。

どうか「死にたい」が「死にたい」のままで末永く生き続けられたらと願っています。

今後もこの「死にたい」との付き合い方を深掘りして研究して行きたいとも思っています。

取り留めもない文をここまで読んで下さり本当にありがとうございました。