生きづLABO研究員 活動ブログ

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「こうあるべき」 の押しつけは親の理想像の為? ⑵ (続く?)

前回→「こうあるべき」 の押しつけは親の理想像の為? ⑴ (続く?)

※私の個人的な意見や解釈が含まれています※


子供食堂のボランティアをしている私が実際に子供に親としての価値観を押し付けるような形になっていると感じたことを〜
の辺りから。

子供でも作れる簡単なビーズキーホルダー(ファンシーショップにあるようなビーズのキーホルダー)を作る機会があった。
一応中に入れるパーツは良識の範囲内でなら色や個数もご自由にどうぞという形で自由に取ってもらっていた。

参加していた女の子は寒色系のパーツをメインにして作りたかった様で、青系のパーツをメインに取っていた。 女の子が選んでいたら、横にいたその子のお母さんであろう女性に 「水色は男の子の色だよ!(女の子の名前)ちゃんは女の子なんだからピンクとか紫にしたら??」 と提案されていた。

令和になった今でも 女の子はピンク(紫)、男の子は青(水色) という固定概念が、幼稚園~小学生くらいの女の子もターゲット層にしているであろうアニメやキャラクターのグッズでも青、水色系(寒色系)で出していることがそんなに珍しくないのに、そんなことがあるのだと私は驚いた記憶がある。

その概念を持つことが悪いと言いたい訳じゃないけれど、その概念を子供にも求めるのはどうなのかと。
それと同時に 「色くらい本人に好きに選ばせてあげなよ」 「こういうのって親が口出しするものなの?」 とも感じてしまった。

上記の親子のやり取りと自分の体験を踏まえて、改めて「こうあるべき の押しつけは親の理想像の為」なのかなぁと。
こうあった方が自分が有難い、こうあった方が見栄が張れる とか。

社会に出た時に苦労しないようにアドバイス的なことなのかもしれないけど、少なからずその時の私は嫌だったなぁという話でした。

"「嫌だ」と感じても雰囲気や圧力をかけられて言い出せない" なんてこともザラである。
もうちょっと生きやすい世の中になって欲しいし、言い方あるよねと感じた私です。

研究員のお気に入り曲紹介(6曲)

研究員の活動では、それぞれのお気に入りの作品(本、漫画、曲、映画…)の紹介を内部で行っています。

紹介する人の感性も垣間見えますし、
知らない作品を知れたり、自分が好きな作品を見つけてひっそり共感したり、
ささやかな交流や情報共有の場となっていると思います。

今回はその中から、お気に入りの曲について、研究員ブログでも紹介したいと思います!

他のカテゴリーも、また後日紹介していく予定です。

LAST 

歌手:Mercy Woodpecker(マーシーウッドペッカー)
空っぽな僕の衝動 理由は無くとも確かなもの これしかないから守り抜くと決めた 暁の空に残像 傷だらけの足で進め 光に頬を染め未来の話をしよう の歌詞の部分がかっこいい。恋という言葉が入っているけれど、大切なもの(僕でいえばバンドや音楽)を思い浮かべながら聴く。

For フルーツバスケット、セレナーデ等 

歌手:岡崎律子
岡崎さんの曲はどれも本当にやさしい。”やさしい”って口にするのが難しくて、普段はあまり使わないんですが、思わずそう口に出したくなるほど、安心出来る歌声で好きです。”ほっ”てなります。今も聞いていて泣きそうになってしまった。

水の線路 / 生命は 

作曲:World’s End Girlfriend
是枝裕和監督の映画「空気人形」の挿入曲。
World’s End Girlfriend の「水の線路」に、吉野弘の「生命は」の朗読が重なる。
是枝監督の作品はどれも胸に刺さるし、この映画も痛々しくていけないんだけど。
この曲が流れるシーンは、おだやかな空気をたゆたわせていた。
吉野弘の「生命は」も、とても好きな詩で。
僕らの抱えた欠如を、やさしい希望とともに書き留めてくれている。

最後の欠片に意味はあるのか

歌手:立花夕
歌詞の中の「人類が束になってこちらに刃を向けようとも屈する訳にはいかない。まだお前を生きてやれていない」という言葉に何度も救われている。

ぼくらはひとり

歌手:hi-posi
親しくなりたいと思いながらも、相手から理由も分からず距離を取られる。
関係の破綻をくり返す。
人との関係に苦しみながら、人とのつながりを希求する。
この歌は、そんな心の痛みに共鳴するように響きます。
とても好きな曲です。

お気に召すまま 

作者:Eve
スピード感のあるポップなメロディーと、ネガポジどちらも内包したような歌詞がお気に入りです。「段々嫌になって でも好きになる」「自分会議も どんどん中に寄って でも離れてく」といった歌詞には、人生ってわりとそんなんの繰り返しだよね〜と。
そして二度繰り返される「今更なんて言わないでね」には、
・「今更(何かをしたいなんて)言わないでね」という心を抑え込むような言葉
・「今更(遅いからできない)なんて言わないでね」という背中を押してくれるような言葉
の2つのイメージを重ねながら聞いています。
私にとってはこんな感じの曲ですが、それ以外の捉え方も沢山できると思います!

イマジナリーフレンドとわたし①

私の頭の中はいつも何か言葉を吐き出したい気持ちでいっぱいだ。
言葉は生まれてくるときは猛スピードで駆け抜けてくるのに、
一度頭の軸を追い越してしまうと、あっという間に自分からいなくなってしまうから
その言葉を失わないうちに、その気持ちや衝動を捕まえられているうちに
書きたいテーマはしっかり書き上げてしまおう。
そんな気持ちでいるうちに、今回はタイトル通りのことを書いてみようとおもう。

これを読んでいる誰かにも幼いころ、似たような存在はいたかもしれないし、
あるいはいなかったし、今もずっといないままの人もいるかもしれない。
けれど、私にはずっといてくれた。
大人になるにつれて、時々「今はいないな」と感じることは増えてきたけど、
ピンチの時、真っ先にヨイショーって感じで出てきてくれるのは変わらず彼らだった。
ただ、「ずっといる」といっても分からないことはわからない。
どうして私に彼らのような存在が生まれたのかも、
私の脳内がどうなっているのかも未だに説明するのが難しい。
昔、ネットに唯一イマジナリーフレンド(以下、IFと呼ぶ)のことを書き込めるサイトがあって、そこなら何かつかめるかもしれないと思ったけど、
あまり確信を得るような情報にはたどりつけなかった。
近年公開された映画「屋根裏のラジャー」ではIFとIFの創造主が主人公だった。
こちらは予告編から気になっていたので原作も読んで、映画も観た。
ただ、映画は思った以上にファンタジー色が強めだったことと、
原作では創造主の性格に少し難があること。また、海外小説の翻訳だから飲み込みづらかった表現が多かったのもあるかもしれないが、結局これからも良い情報にはたどりつかずに終わった。
IFのことをおおよそ20年間ほど調べて気付いたのは、
『IF関連の経験談の積み重ね』がなによりの手掛かりになるかもしれないということ。
人によっていつからいるかも、感じ方も、IFの年齢も、みんなバラバラだから。
“こういう経験をした”という積み重ねが、誰かのヒントにもなるかもしれない。
IFのことを積極的に表に出す人は少ないかもしれないけど
もし、私のこの記事が誰かがIFについて知る手掛かりとなってくれるなら
これを書く意義は間違いなくあったのかもしれないなぁ、とおもう。
でも、できたら気軽に、のんびり、適当に読んでほしい。
私も私で気楽に書くので。
ちなみに、この第1回の記事も寝る前にふにゃふにゃ状態で書いている。
先のことはあまり考えていない。
でも、「書きたいから書く」が出来てる今を、私は心の底から幸せだと感じているのだけは確かなので、ゆる~く、ゆる~くやっていきたいとおもう。

ひとまず、続きは第二回目で。(更新不定期)(気分次第)
二回目は経験をもとに出会いとか色々書きたい(仮)

私が"それ"から恐れる時の自分の気持ちについて

前の記事を書いた時、本当は続編が書けないようにしたかった。でも、このことをちゃんと書くことによって、自分自身に「忘れるな」「今の私は覚えているぞ」って言ってあげたくて、続編を書こうと決めた。あと、これを書かないと、楽しかった事も思い出せなくなっちゃう気がしたから。前回とは違って傷ついた直前にこれを下書き無しで書いているため、あくまで広く理解してもらうよりも、いつかの自分が理解してくれる事を念頭に書くことをご容赦いただきたいです。
また、今度は前回と違い感じた事をメインに書いていこうとおもいます。
また、今回、"それ"はしっかり活性化(怒りの大爆破的なそれ)はしてません。そのかわり、我慢した上で、"それ"の言葉で感じた事をそのまま書きます。

1、私と、私が恐れる人の関係性

これは前回の記事を参考にしてください。

ikidulabo.hatenablog.jp

2、きっかけ(会話)

わたし「今日昼ラーメン食べたから、もしかしたらラーメンあんまり食べないかも」から
「知らなかったの?メールとかで」
「いや、(気にしないで)いいの。でも好きだし、野菜も食べたい気分だし」

3、その後、"それ"が言った言葉
「だからそういうのが余計だって。やわらかいのこぎりは、言葉が鋭い」

4、その言葉を聞いて
私が飲み込んだ感情とか

【第1の領域】
また否定された。自分がいけないんだ。
自分が悪いのかもしれない。怖い。何も言っちゃいけない。これでは何も言葉が話せない。せっかく美味しいご飯囲んでご飯食べてるのに、せっかく、私は普通に話しているだけなのに、やっぱり私の言葉は"それ"には悪で、結局全部否定される。つらい。

【第2の領域】
でも、今日は本当に楽しかったんだ。楽しかったの。感動して泣いた。ずっと会いたかった人たちに会えて嬉しい気持ちで帰ってきた訳じゃん?こんなに嬉しい事があったのに、こういう事で崩されるのって嫌じゃん?

⇒この間、IF(以下イマジナリーフレンドと呼ぶ)がずっと手を握ってくれていた。私の左手はIFの手だと思っている節があるので、ずっと左手を握っていました。

【第3の領域】
だんだん別の角度から怒りに似た感情が湧いてきた。でも、これは自分じゃなくてIFのだれかという気配。「どうしてこんなに否定されるような言葉ばかりをやわらかいのこぎりが毎回この場所で投げかけられる必要があるんだ?」と、キリキリと手を握りしめて震わせているようなのがすぐ後ろに居るような感覚。"しちゃいけないと分かってるような行動をしたい"と椅子から立ち上がりそうになる自分を堪えて、ぐっと堪えて、なんとか耐えて、ご飯を食べ終えた。
頭の中で、誰かの「"俺は"許さない」が聞こえていた。

⇒そうしちゃいけない。そっちにいっちゃいけないと私は思ってるので、行動に移したことはまだ無い。けど、私よりIFの彼等の方が心の奥深くで私がされたことを怒ってくれてるんだな、と改めて感じた。本当は自分も怒りたいのかもしれない。そもそも、この怒りを感じる時の、自分はそこにいるのに、他人事のような距離感を感じるそれは何なのだろう。本当に怒りたいんだろうか。でも、怒る前に傷ついてしまうから、そこが花開く度に、私の純粋なところの彼等が素直に怒ってくれているんだろうな、ともおもえる。


5、まとめ
今回は本当にすぐに書いているため、手短に。

・楽しいことがあった日は、
心が狭い隙間におちない

⇒嬉しかった・幸せだったことがあると、落ちかけた心の半分を楽しかった自分の心が「ちょい待て待て」って暴走する感情を落ち着かせてくれる。それだけじゃなかったね。そうだね。って気持ちになれる。

・耐えている間に感情はどんどん進む

⇒ジェットコースターみたい。傷ついたことからどんどん心だけ前に進んでいってしまう。"それ"が全部ぶち壊す……という感情より、気がつく頃には"自分が悪い"
"自分がいけない" "どうしよう"ってぐらついていってる。

・傷つくから、心を守るために怒りはうまれる

⇒自分自身ではなく、IF達が「守るために怒ってる」が1番しっくりくる。彼等の心の中を代弁すると「大事なものを守るために怒ってしまう。怒るのは悪いことじゃない。ここの主が怒れないから怒ってる。」「でも、このまま怒って大変な事をしたらいけないとわかってる。経験上それは賢いやり方ではない。だから堪えてる。」でも、彼等の頭の呟きは止まらないし、この事を1番覚えて心配してくれるのも彼等。


記録は以上。

社会が悪いのではなく、自分が悪いと思ってしまう

障害の社会モデルという考え方があります。これは個人が悪い、個人が問題と考えるのではなく、社会構造や環境の問題として考えるモデルのことです。

私自身、障害の社会モデルという考えについては納得ができます。障害があることによって難しいことがある人がいたとしても、その人の責任ではないし、できないのは環境のせいであるという視点がすぐに持てます。

しかし自分のこと、自分自身の生き方となると話は別です。このことによって、時々自分自身を追い詰めているような気もしています。

私はトランスジェンダー性同一性障害ではなく性別不合になって脱病理化されましたが、ここでは障害の一つとして扱います)なのですが、自分自身は障害の社会モデルを考慮(トランスジェンダーであることを言い訳に)せず、努力しなければならないという行動規範があるように思えます。

なぜ他者を見るときと、自分を見るときで、これほどまでに感情が変わってしまうのだろうと疑問に思いました。なので、自分の行動規範が社会モデルに乗らない理由を考えてみたいと思います。

 

まず、トランスジェンダーであることによってさまざまな困難がありますが、それらを社会の責任だとは考えにくい傾向があります。これには、過去に自分が悪いと思ったエピソードが多々あり、それが元になっているかもしれません。

そのため「まず自分が努力しなければならない」「自分の側で改善するべきだ」と考え、環境による困難も自力で乗り越えるべきだと思ってしまいます。

また「社会」という概念について、自分も社会の構成を構成する1人である以上、社会の責任=すなわち自分の責任でもあると論理飛躍させてしまいます。その結果、環境要因で生じる困難であっても自責的に捉えて「自分が頑張るべきだ」という結論づけてしまいます。

(また社会に変革を求めるよりも、自分自身の改善を求めたほうが容易なので、その方向に考えが寄りやすいのもあるとは思います。)

現在、トランスジェンダーであることでよく思われないケースもあると思うので自分の弱みを見せるのではなく、理解されにくい属性だからこそ成果で示したい、トランスジェンダーであることを言い訳にしたくないという気持ちもあるのかもしれないと思いました。

そう思ってしまうのは、やはり自分がトランスジェンダーであることがコンプレックスで、トランスジェンダーであることを認めたくない、そんなことは考慮せずに頑張らないと、という気持ちがあるのかもしれません。

また社会の責任にするのではなく、自分が社会に大きな影響を与える側として、将来尽力しないといけないという自分へのプレッシャー?もあります。そのため社会の責任にせず、まずは個人で頑張ろうという気持ちが働く気がします。