生きづLABO研究員 活動ブログ

NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しています

性別「わたし」

私は身体の構造上女性として生まれ、そこに違和感を持つことはありませんでした。しかし、「私は女性だ」ということを自覚しているわけではなく、自分がどんな性かを深く考えることはありませんでした。
幼い頃はそれでも不自由なく過ごしていました。

思春期になって、私は学校の女の女性の先生のことが好きになりました。話を聞いてもらって、優しくしてもらって、嬉しかった。同級生からは、「レズ」と呼ばれていました。私はレズの意味がわからなかったので聞くと、同性愛者のことだと教えてくれました。今まで男性のことを好きと思ったことがなく、寧ろ怖いと思っていたので、私は同性愛者なのか、と納得して過ごしていました。

でも、成人して社会に出て気付きました。好きって色々種類があること。りんごが好き、子どもと遊ぶのが好き、あの人が好き。
私が好きと思っているのは、恋愛感情としての好きではないかもしれない。
そこで、私はアセクシャル・アロマンティックなのでは、と思うようになりました。

ショックなどはありませんでした。とてもしっくり来ました。生活が何か変わることはありませんが、目の前にかかっていた霧が晴れたような気持ちになりました。

死にたいか消えたいか聞かれたらどちらを選ぶ?

私は、「死にたい」と思い始めてもう15年になります。15年経っているのにまだ生きているのか…と思ってしまいますが、まだ死んでいません。
最初はとにかく、何が何だか分からず「死にたい」と思ったり、口に出してみたりしました。
死に方を調べるとドキドキしました。料理で包丁を握るだけで「これを身体にさしたら」と思うほどでしたが、それを実行に移すことはできませんでした。
でも考えていくと、それは「死にたい」ではなく「消えたい」なのでは?と思うようになりました。
消えたい。私の存在を無かったことにしてほしい。良いことも悪いことも全て人の脳内から消されてほしい。生きるのが耐えられないとき、そんな気持ちでいっぱいになります。死にたい気持ちが0ではありませんが、死にたいと消えたいの間で今日ももがいています。

性別違和と向き合う戦い

研究員ブログを投稿しては消し、
投稿しては消しを繰り返した、
俺の再スタート記事として、
俺と切り離すことのできないこのテーマに触れてみることにした。

研究員になった当初とは、俺の性別違和との向き合い方は大きく変わった。
そもそも研究員になった当時は、自分がトランス男性という自覚が無かった。
しかし遡ると、前に性別違和を強く感じてた時期があったんだ、その後周囲の言葉がつらくて抑圧したという過去も含めて思い出す。

今の俺は自分が男性でトランスジェンダーだと自覚・認識している。
しかし認識したら終わりとはならず、
性別違和と向き合う戦いを現在進行系でしている。

この自分の体はどうしても気持ち悪くて嫌いだ、好きになれない。
月経が来るのも本当は嫌だ。
シャワーを浴びる時もすごい苦しい。
過去に性別違和を抑圧してしまったのも頷けるくらい、
割り切れないしんどさが俺の中にある。

そんな俺はゲームで性別違和と向き合っている。
なぜならゲーム内では俺はシス男性でいられて、周りからも基本的にシス男性として扱われるからだ。
それがシス男性として産まれられなかった俺にとっては大きな救いになっていて、
そのゲームは俺にとって、
生きづLABOに並ぶ、
俺が俺でいられるバーチャルな居場所の一つと感じている。

この記事もまた消しちゃうかも、
でももう消したくはないな。
俺は自分の体が好きになれない、
だからこそ、
俺は自分の言葉を好きでいたいんだ。

最後に感謝を。
生きづLABOの皆さん、研究員の皆さん、いつもいつも本当にありがとう、
ここは俺にとって、かけがえのない大切な居場所だ。

生きづらさの原因って?

春、出会いと別れの季節。私はお世話になった先生と仲良しの同級生と別れ、見知らぬ人しかいない高校に飛び込みました。・・・はぁ、先生の当たりは半分切りそうだなぁ。
そんな数少ない当たり先生の中でここで話をしたいのは、地理総合の先生です。スポーツと某ゲットだぜ!のゲームが大好きな先生です。その先生が、地理総合の最初の授業のオリエンテーションで「勉強する意義とは」って話をし始めまして。その話で感動した部分があったので共有させてください。
それは、「勉強のデメリットは、世間のノリとずれて苦しむこと」的なことです。
先生が例としてあげた話を簡単に紹介しますね。千年くらい前の人って、雷を「神様の祟りじゃあ!」って騒いでたじゃないですか。そこに、「雷ってうんたらかんたらの静電気なんですよ~」って話したら、正しいけど場の空気は悪くなっちゃう。
私はこの話を聞いて、生きづらさの原因はここにあるかもしれないと思いました。社会のおかしさに気づいて、「これはおかしい」と声をあげたら場の空気が悪くなって、普通にはまれなくなって、生きづらくなる、と。
生きづらいのは、知りすぎたせいだ!良く言えば生きづらい人は天才なんだ!つまり私たちは天才!
知りすぎて撃ち殺される映画とかってあるじゃないですか(映画詳しくないからあんまないかもしれない。その辺知らないです)。だから私たちは知りすぎて自分に自分で銃口を向けているんです。だから生きづらいんです!
その先生は、「無批判に普通に飛び込む方が楽」と話されて、それも納得しました。絶対楽だけどそうはなれないなぁって。女子高に通っているのもあるんでしょうが、女性はメイクとかその辺で世間のノリにずれて苦しむ可能性が高いって話もされて、はぁって思いました。
あぁ、先が思いやられる感じがするぅ。でも、生きづらいのは天才だからと思ったら、少し楽になったので紹介します。この先生に一生ついていきたいなぁ。

世の中は誰中心?

最近、私は「自己中心的」という言葉を聞きます。そして、その言葉はあまりいい意味で使われないことが多いです。それは、なぜなんでしょうか?私は、自己中心的と言われる人は自分中心で物事を考えているからだと思います。でも、私は悪いとは思いません。なぜなら、人のこと優先で考える人も、その価値観は自己中心的だからです。そもそも、自己中心的と言っている人の評価点も自己中心的です。つまり、この世の中からは、自己中心的の人はいなくならないと私は思います。