生きづLABO研究員制度 活動ブログ

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普通・軋轢・すり合わせ

人の能力のばらつきって、ベルカーブを描いてるんだと思う。
知力にしろ、体力にしろ、多くの人がこなせる標準的な能力があって、それを「普通」と呼んでいるんだろう。
僕は昔から、普通のことができなくて、集団に馴染めず苦労してきた。
ベルカーブのすそ野に転がる、外れ値のはぐれ者だ。

都会に出てみたものの、普通の仕事をできなくて、田舎に帰って家業を継いだ。
ぼく自身は仕事ができないから、人をお雇いし、おおよそ任せっぱなしになっている。
先日、入社して数週間の職員から相談を受けた。
辞めたい、と言われた。

入社してすぐの頃、彼は上司との面談で「困ったことがあったら相談して」と言われた。
そこで彼は、できない業務について相談した。
「慣れれば大丈夫よ」
そう返事をされて、何も言えなくなった。

「分からないことは、その都度きいて」。そう言われても、分からないことが多すぎて聞けなかった。
他の人はその場で判断できることでも、彼にとっては前日から準備をしておきたい内容だった。
曖昧なことが苦手な彼は、事前に方法と手順を組み立てておきたかった。
まるで僕みたいだな、と思いながら聞いて、どうすればいいかなあと思案する。

せっかく来てくれた職員さんだから、ベテランの職員を付けて教える体制を取っていた。
けれど、そのことで不公平感を抱いた職員さんもいたようだ。
「私が入ったときは、そんな配慮してもらってない」
そんな心の軋轢をすり合わせ、治めていくのは骨が折れる。

皆が自分らしく在れる場を作れたらいいのに、とは思う。
個々人の見えない能力のでこぼこを、すり合わせていけたらいいのに。
けれど、僕自身、人とうまく喋れないし、大勢のなかにいるとしんどくなって、上手に立ち回れない。
組織をまとめるのは向いてない、なんて自己否定に落ち込んでしまう。

標準的な能力を有する普通の人だけで組織を構成すれば、違いをすり合わせるストレスはないのかもしれない。
できるのが当たり前と考えるなら、できない人に配慮をするのは煩わしいと感じるだろう。
標準から外れるものを、障りのある害と見なす。
そんな社会の在りように、ゲーが出る。

僕らにとっては、普通にできないのが普通なのだ。
数が少ないだけで、責められるいわれもないはずだ。
社会は、普通だけで構成されることなんて、ありえない。
はぐれ者にも、生きてしあわせになれる権利はあるだろう。

多様性を受け入れよう、って本気で思っているならさ。
相手の話を聞き、理解して引き受け、どうやったら一緒に居られやすいか考えたり。
自分の思いを伝えて、相手と擦り合わせ、共に在れるよう努力したりさ。
一人ひとりが丁寧に対話しないと、一緒になんて生きてゆけない。

アブノーマルな存在が当たり前にいる。
違いを理解し、共に生きるためのすり合わせを、普通におこなえる。
そういう場を、いっこずつでも作っていきたいな、って思うのです。
今日もまた、ぎくしゃくとすれ違う人たちと、会って話をしてみよう、と思うのです。