生きづLABO研究員 活動ブログ

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「空気」の「読み方」?

 少し「空気の読み方」について考えてみます。というのも、最近、「空気を読む」ことが多いと感じたからです。この私が空気を読む、これができるとは驚きでした。
 また、「綺麗事」というのも、「空気を読んで」言われることも多いのかなと思いました。
 しかし、それは「読む」ことができるというよりも、実は「読み方」が他人と一致しただけではないか。そう思ったのです。
 一般的に「空気を読む」ことは難しいですし、大方、これを読む方々をそう感じるでしょう。ですが、そう感じるからといって難しい、できないとは私は思わない。
 なぜなら、「空気を読む」場所が合っていないだけだと思うからです。とういのは、「読む」と言っても「読み方」があると思います。「本を読む」「文章を読む」といっても、普段は意識しませんが、「主語」や「述語」に注意して、「誰が」「何を」「した」と読む。つまり「読み方」がある。
 「空気」も実は同じなんじゃないか。私達は「難しい」とか感じるのは、「空気」を認識している証拠です。つまり「理解」はしている。でも、「読み方」が他の人と違うだけではないか。そう思います。
 言い換えれば、要するに「空気」の「読み方」が同じ人同士がつるんでいればよい、ということです。「空気の読めない奴」とは言いますが、他の集団とかに行けば、そのようなことを言う奴が「空気の読めない奴」になるかもしれない。そう考えると、「空気」のコンセンサスなんてものは、多数派の決めることなのかもしれません。
 すなわち、「空気」を「読む」ことや、その「読み方」自体に価値が伴っているとは限らない、ということでもあります。
 「空気を読む」のではなく、「空気の読み方」を考えてみる。それを観察して言語化してみる。そうすると、お互いのすれ違いを減らせるのかもしれません。
 「綺麗事」というのも、ある意味では「読み方」の共有の結果なのかもしれない。つまり、「綺麗事」が共有できないとしたら、その人とはご縁がなかった。そう考えることができると、勝手ながらに思いました。