長年、社会不適合者をやっていると、どこかしらで社会不適合者の友達ができる。
誰にも言えない思いを、匿名でネット上に吐き出す。
傷ついた体験や他者の無理解。
自己嫌悪や自傷的衝動。
そうして、他者の書き込みに、いいねを押したり、返信したり、フォローしたりする。
同じような思いを抱えた誰かと近づいてゆく。
治らない「病み」は存在する。
理由はどうであれ、医師にも、支援者にも、救えないものだ。
「病み」を抱えたまま、社会に適合する術を覚えて、生きおおせながら、癒えない痛みは抱え続けている。
その、苦痛と共に生きる感覚を共有できるのは、専門家ではなくて、同胞たる病み友だと思う。
病み友との関係についての肯定的な側面を、みてみたい。
1.相互理解と孤独の解消
「埋められない穴、みたいなもの」。
そう僕が表現する感覚がある。
それはアプリオリでプリミティブなクオリアとして、ずっと胸の内に存在する。
「その穴は、何でできた穴なんでしょう?」
支援者は、そんなふうに尋ねる。
「埋められない穴」。
そのシニフィエは抽象化された記号にしかならない。
輪郭のぼやけた抽象画のようなものだ。
いくら説明を重ねても、それ以上には伝わらない。
「ああ、わかる」
病み友は、シニフィアンを共有するように、言った。
「死にたい」
その言葉に潜む、救いや安らぎの渇望と、その諦めをも共有するように、僕らは語らう。
一般的には説明しづらい経験や感覚を、病み友となら言葉以前のものとして共有できる。
それは孤立感を和らげてくれる。
2.対等性の回復、実践的知恵の交換
生きづらさ、苦しさを抱えるなかで、専門職に支援を求めるときもある。
数ヶ月の予約を待ち、一時間程度待合室に並んで、数分の診察を受け、薬をもらう。
あるいはカウンセリングルームで話をし、治療めいたことをして、安くない料金を支払う。
そして、支援を受けながらも思うように効果の出ない体験を重ねることもある。
一方、病み友とは、回復しない痛みの吐露を通し、共感的な関係が育まれる。
じゃれあい、喧嘩もしながら、弱音を吐き、手を差し伸べ合う。
ときに、有用な情報共有もあろう。
そして、その関係性には永続性すらあるのだ。
一方で、「相互依存や共倒れのリスク」、「外部リソースへのアクセス阻害」といったリスクもあるだろう。
そのリスクを鑑みてなお、病み友が持つ固有の価値は、専門職による支援以上の意味があると私は思う。