生きづLABO研究員 活動ブログ

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このブログは、NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しているサイト「生きづLABO」の活動の一つです。

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【第2弾】研究員のお気に入り曲紹介(9曲)

研究員の活動では、それぞれのお気に入りの作品(本、漫画、曲、映画…)の紹介を内部で行っています。

今回はその中から、お気に入りの曲について、研究員ブログでも紹介したいと思います。

他のカテゴリーも、また後日紹介していく予定です。

心という名の不可解、永遠のあくる日

歌手:Ado

曲目はすごく感情に乗れて、曲の勢いもあって、それでいて繊細な言葉だったり音だったりがとっても好きな曲です、、、!
2曲目はAdoさんの数少ないバラード曲で、美しい歌声と歌詞と、聞いていて泣けるような雰囲気で何回も聴く曲のひとつです!

「PAIN IS BEAUTY」・「美人」・「NG」・「命日」

歌手:ちゃんみな
四曲とも歌詞が好き。
「PAIN IS BEAUTY」は、全部好き。特にサビの、「痛みって美しいんだ 私を綺麗にしたんだ」が好き。MVもかっこよくておすすめ。
「美人」は、「前例がないのは怖いかい」から、「あの彼女を助けなさい」までの歌詞が大好き。
「NG」は、「YOUには本物すぎたかも」と「お前のNOは無意味」が勇気をくれて好き。聞いてると自分が強くなれている気がする。
「命日」は、最後のラップ部分が全部かっこいい。特に、「私は私で私を生かす」が好き。あと、サビの「まだ死ねないわ」を死にたいときに口ずさむと少し死にたさが楽になるからおすすめ。

いきてやる

歌:やみの おねえさん 作詞作曲:ももにくす 編曲:やみの おにいさん
物騒ながら胸打たれる?
いいや、物騒“だから”胸打たれる歌詞だと俺は思う。
自分なんて悪だしダメだしクズだし気持ち悪い、それでも誰かや何かのことを許せなくて、誰かや何かに対して納得できなくて、善くあれなくて、悪にもなり切れなくて、苦しくて苦しくて、それでも今を、少しでもマシな今にしようともがいてる。
そんな俺の気持ちにすごく響いた、俺の大好きな曲。

爆裂愛してる

歌手:M!LK
気づいたらはまってた曲。
聞いてるとノリノリになれたり、心が明るくなってくるような感覚がしたりするから好き。
歌詞もメロディも編曲も好き。

ノンブレス・オブリージュ

作者:ピノキオピー(歌唱:初音ミク)
伴奏で鳴っている優しい音と、つらさや苦しさをひたすらにうったえるような歌詞が交わって1つの曲ができている感じが好きです。
個人的に衝撃をうけた歌詞は「壮大な内輪ノリを歴史と呼ぶ」
共感した歌詞は「生きたいが死ねと言われ 死にたいが生きろと言われ」です。

知恵、勇気そして節制 ギリシア狂騒曲

受験や学歴社会とは何なのか。私なりに考えてみようと思います。

・事実の確認
 受験や学歴は必要か。そもそも学校という制度自体は近代以降のものです。均一的な労働者を生み出すことに、その目的が当初はありました。その中でそこからさらに、勉強する人が「大学」にいったわけです。そのため、実は戦前からずっと学歴社会であるといえます。
 そして、太平洋戦争といったものを通じて、今に至るわけですが、面白いことに、今の国民皆保険制度といったものは、実は戦時中の制度を元にしているという話があります。というのも、ゼロから一を作るのは大変ですが、一から二を作るのは簡単です。
 何が言いたいのかというと、結局過去からの連続性の上でしか、我々は制度を作れないということです。たまに、天才が現れて一気につくることもありますが、普通は一つ一つ積み上げる感じになると思います。
 また、偏差値で見るところについては、「どこを基準に能力を測るのか」と考えたとき、おそらく偏差値が「考える限りで公平」と思われているということはあると思います。新卒一括採用が慣習としてきています。新卒一括採用の特徴は、「可能性に投資する」ことです。つまり、「うちの会社で働いて活躍してくれるかな」が基準となります。その「可能性」を測る上で、偏差値を用いる。これは、おそらく良くも悪くも「妥当な」こととみなされてしまっているのかなと思います。

・その上で感じること
 いろいろと思うところはあると思います。しかし、私としては、「悪くはないかな」と思います。私自身、地方の小さな私大の院にいます。有名な大学ではありません。ですが、今の大学にきて後悔はしていません。
 結論から述べると、「運」のような気はします。ですが、条件がそろえば、今の学歴社会や受験環境の中でも、やりようによっては「上手く」いくこともあると思います。
 もちろん、いい大学にいって、ホワイト企業に就職することはよいことという価値観を悪くいうことはできないと思います。その人の価値観、人生にとやかくいうことはできないと思うからです。
 いかなるレベルの大学にいこうとも、そこで誰と出会い何をするかなのだと私は思います。どのレベルの大学であっても、大方教員はしっかりしています。たまに、学会ではトップの学者でも、分野がニッチ過ぎて、大きな大学が雇ってくれず、地方の私大にいることもあります。もし、その方の下にいけたら、結構良いことあります。また、そもそも、家庭の事情で近くの大学に行かざるを得ない学生もいます。確かに、学歴フィルターはありますが、見てくれる企業はいます。探すのは大変かもしれませんが。

・割とみんな適当に生きている
 さて、ここまで読むと、なんか「一生懸命にやれ!」と思われるかもしれません。ですが、そんなことはないです。実は、適当になんかやっていたらたどり着く。だから「運」なんだと私は思います。身も蓋もない話です。
 意外と世の中適当でもいいんだなと思います。院にいると、「この教員、よく教員になれたな・・・」とびっくりするような人もいます。一方で、「なんでこんなに優秀なのに、この大学にいるんだ?」という人もいます。さらには、どんなに優秀な教員や研究者でも、学会の主流派になれないだけで、50代まで非正規雇用の人もいます。まさに、「運」なんです。ですが、その評価は表面的です。なんやかんや、少しでも「情けは人の為ならず」の精神で、自他の境界はハッキリと区別し、常に「できること、できないこと」を把握し、己の役割を静かに受け入れている教員の背中は、みていて輝かしいものがあります。これは、人間としての生き様で、大学のレベルでは測れないものです。
 人間は誰一人として、輝けるものをもっています。その輝かしさに敬意を表し、時に共に喜び、時に戒める、そんな立派な「大人」が現れるとよいと思います。
 近代に入り、神は死にました。ですが、先人たちの人類に対する憎悪と将来世代への希望は、まさに感情のうねり、人間としての本性を感じるところです。少しでもよい世の中を、次の世代に残すという意思を見られたら、もしかしたら神にすがることなく、超越したものを感じることができるかもしれません。「神は作用である」といった、遠藤周作の言葉が、重みをます現代であります。
 悲劇か喜劇か、最後の最後に必要なのは「どう生きるのかという生き様」だと思う次第です。

「人間」と「動物」の違いとは?

「人間から属性をはいだら?」という問いはとても興味深い、哲学的問いです。古来、いってしまえば紀元前のギリシアの頃から、ずっと考え続けられてきた問いであると、私は勝手ながらに思います。(編集注:研究員内で、こんな記事が読んでみたいというブログテーマを募集しており、その中に「人間から属性を剥いだら何になるのか。何処までを属性とするのか」があります)
 この議論をはじめる前に、「哲学の考え方」について簡単に考えてみたいと思います。というのも、おそらくここの読者の方々は「生ける哲学者」であると思います。その分、鋭い視点をお持ちだと思います。ここにさらに、「自分の思考のくせを言語化する」と、なお鋭く、冷静に見られるだろうなと勝手ながら感じております。そこで、私の知っている限りですが、言語化しやすくするために、少し哲学の分野でなされている「方法」をはじめに紹介しようと思います。ただし、私個人の見方ですので、そこはご了承ください。

・対立項をつくる
 哲学は、様々な哲学者の論で溢れていますけど、要は「昔の哲学者を批判する」ことをしているわけです。その時に、哲学者たちがしているのは、「昔の哲学者の言い分の要点をつかみ、それに対立する考えを提示する」ことです。例えば、「赤リンゴは美味い」という哲学者がいたとしましょう。それに対して新たに理論を立てるには、「赤リンゴは不味い」というか、「赤リンゴより美味しいリンゴがある」と述べることが必要です。そのために、「青リンゴは美味しい」という理論を、他の哲学者が立てたとしましょう。このとき、「赤リンゴ」対「青リンゴ」という対立が生じます。
 さて、この対立が生じるとき、大切な作業?があります。というのは、「何を基準に対立させるものを考えるのか」です。「赤リンゴ」に対立するのが「青リンゴ」であることに、おそらくあまり違和感はないと思います。それは、私のほうで「そのほうが分かりやすい」と判断したためです。実は、別の対立もつくれます。例えば、「赤リンゴは不味い」という対立項です。
 「赤リンゴは美味しい」という理論があったときに(正確には「命題」と呼ぶほうがよいかもしれませんが、とりあえず「理論」と呼んでおきます)、この理論から2つの要素を見出せます。読んで字のごとくですが、「赤リンゴ」と「美味しい」です。つまり、「赤リンゴ」に対して対立項をつくる方法と、「美味しい」に対して対立項をつくる方法が考えられます。どの要素を基準に対立項をつくるのか、実は論じたい内容によって異なります。
 以上が、簡単ですが、哲学者がやってきた「考え方」?というものです。これを「人間の属性」にも当てはめてみます。
 なお、余談ですが、ヘーゲルという哲学者がいます。その哲学者は3つの項を用意しており、非常に厄介です。一般的には2項対立の形ですが、色んな意味で有名ですので、覚えておいて損はないですね。

・人間の属性
 古くからなされている人間の「属性」を見つける考え方として、「動物との違いは何か」というものがあります。「人間」対「動物」ですね。人間にあって、動物にないものを比較してみようというものです。生物学的に、遺伝子から探る方法もありますが、哲学的に考えてみます。
 大方、「理性」というものがよく、人間と動物の違いとして挙げられます。「理性」というと、なかなかイメージしづらいと思います。実際、この「理性」の意味は、時代によって変化してきました。そのため、厳密に1つの意味に決まっているとは、私は思っていません。論じる人によって異なり、大雑把なイメージがある、そんな感じです。そのため、とりあえずは最低限の意味として、「物事を予測して行動することができる能力」とでも定義しておきます。なるほど、これなら人間の特徴として、動物と違うと思うでしょう。
 しかし、動物の中にも危険を察知して避ける行動をとることもあるでしょう。そうすると、この「理性」は人間の特徴といえないかもしれません。
 では、昔の人はどうしたのか。それは「道徳」というものを持ち出しました。「倫理」なんて呼んだりします。道徳的な範囲で、人間は「物事を予測して行動することができる」としたのです。そうすると、先ほどの「理性」の定義を改めると、「道徳に則った行動をすることができる能力」と再定義し、これを人間の特徴としたわけです。
 ただし、この「道徳」とは何でしょうか。もし、いわゆる社会的な習慣としたら、「老人に椅子を譲らない」といった行為は、非道徳的として「人間でない」ことになってしまうのでしょうか。
 おそらく、「人間ではない」とまで結論付ける人はいないでしょう。流石に極端すぎます。良心的な人なら「まぁ、そんなときもある。人間だもの」と温かい目で見守ると思います。
他方、社会は一枚岩ではないので、いわゆる「常識外れ」であれば軽蔑等の非難の可能性はありますし、法律に反せば罰を受ける可能性も否定できません。
 そう考えると、結構「人間」の属性とは、なかなかハッキリしないものなのかもしれません。何かキッチリした定義をすることが難しい。それが人間と、私は考えていて思います。
 もちろん、学問としては言葉にキッチリした定義を与えなくてはなりません。そのため、どうしてもこのような極端な例外の可能性が、「論理的に」浮かぶのです。そこをつき、「理性」を基準にしてはいけないとする批判も起こりました。一方で、何かをするには基準が必要になります。しかし、完璧な基準は存在しない。この矛盾がどうしても生じてしまう。なかなか難しいと思います。
 ちなみに、ハンナ・アーレントという方(哲学者というか、政治哲学者というべきか悩みます)が、曖昧な人間の姿を定義づけようとしました。『人間の条件』や『活動的生』として翻訳本が出ています(両方とも同じ本です。翻訳者によって訳が異なるため、異なるタイトルになっています)。「理性」については、カントが代表的な哲学者として挙げられます。ただし、とても難しいというか、ヨーロッパのキリスト教的観念が入っているので、それを理解した上でないと、大変なところであります。しかも、カントの後にヘーゲルが登場し、さらに「理性」についてややこしくなります。専門家の人ですら今だに「よく分からない」と言っているのを聞きました。

 長々となってしまいましたが、人間の属性を考えると、実は大昔から考えられていることがわかります。学問としてやるのはともかく、自己理解を深める上では、様々な人の考えを知り、どう自分なら考えるのかを深めるきっかけになれば幸いです。

「綺麗事」の狭間で揺られて・・・

 「相手のことを考えよう!」「自然環境は大切に!」というような「綺麗事」は多いと思います。一方で、公害問題や、様々な事件のニュースを見ると、「綺麗に見えない現実」の姿を目撃することでしょう。身近な所でも、感じることもあるでしょう。
 私も「なんかなぁ」と感じることがあります。綺麗事を言って騙そうとする人も見ました。綺麗事に対して一歩下がって見る姿勢が大事です。そこで、感情の整理も兼ねて、私の感想を淡々と書いてみようと思います。私の感想もまた、一歩下がってお読みください。

 よく、日本社会において「本音と建前」という区別があります。「綺麗事」は「建前」に入ると思っています。海外では本音で話すということと比較されることもあるでしょう。ですが、本音が多すぎて、アメリカでは色々とガタがきているようにも思います。かたや、日本は建前ばかりです。
 私個人としては、「ほどよい中間」がないかなと思います。例えば、人によるかもしれませんが、「昨日何食べた?」とか「今度どこ行く~?」とか、言ってしまえば意味のない会話を友人とかとします。実は、これ意味がないのではなく、人間関係の潤滑油のような役割をしていると思っています。というのも、例えば歯車同士が回るときに、オイルとかがないと擦り減っていくことでしょう。人間関係でも同じようなものだと思っています。建前も同じようなもので、ある種潤滑油のようなものだと私は思います。本音ばかりでは、疲れてしまうでしょう。
 とはいえ、言うのは易しいですが、行うとなると難しいことと思います。現実的に、十人十色ですから、どこまで本音で、どこまで建前でOKなのかは人によるからです。
 ではどうしたらよいのか。私個人の意見ですが、無理に合わせる必要はなく、自分のもつ基準に合う人、つまり自分の許容できる本音と建前のラインとマッチする人と友人とかになればよいと思います。もちろん、合わない人もいます。それは、一定の距離を保つことで、自分に負荷がかからないようにするのが一番です。なんというか、相手のことはそこまで気にせず大丈夫です。まずは自分自身の心配をするのが最優先ですから。
 このような感じで私は考えています。
 ところで、建前として綺麗事が自らの血肉となるのか。綺麗事が中身のある綺麗事になるのか。場合によると思っています。建前とはいいましたが、「嘘も百回言えば本当になる」とかいわれるように、私がそうなのですが「私は研究者に向いている」と、そんなことはないのに思い続けていたら本当に大学院に進学してしまった、なんてこともあります。もちろん、全ての場合がそうとは限りません。本人の性質といった、様々な要因が重なって、はじめて綺麗事が中身のある綺麗事になると思っています。要は運ですね。
 ただし、綺麗事にも効用はあるとは思います。例えば、世の中が色々と大変なことがあるからこそ、綺麗事に向かって前進する人もいます。テレビとかSNSでは声の大きい人に焦点があたりがちです。そのような人を見ると、綺麗事を見ても怪訝に感じるのは当然でしょう。一方で、日の当たらないところで少しずつ綺麗事が現実に起きるように地道に活動している方がいることを忘れないことは、大切だと思います。

春の陽気、初夏の入口と少々「法」のお話

さて、春である。暖かくなってきたので、何か書いてみようと思い書いてみる。内容としては単純に、前半はコミカルな日記、後半は日記から考える少しだけ真面目な個人の感想文である。なんというべきか。ある種の諦観の念を書き起こしたようなものである。

・前半
春眠暁を覚えず云々…。どこかで聞いたようなものであるが、まぁ意味はよく分からない。
とりあえず、晴れ渡る青空に、揺れる春の野草を見、風が通り過ぎるのを感じる。これだけで何かよい。蝶々の姿を見て夢心地である。
 だけれども、地球温暖化の影響が知らないが、もう暑い。確かに、昔の季節にのっとれば今は「夏」ではある。とはいえ暑い。エアコンもつけた。そしたら、なんと水がエアコンから垂れてきた。室外機のホースが上を向いており、水が逆流しているらしい(直した)。
 ホースを直しにベランダに出る面倒くささに、私の思いも逆流しそうであった。とはいえ、この時期のそよ風というものは、永遠に感じていられる。ずっと、外のベンチに座って一日を終えることができそうなものを、ベランダに出て感じることができたので、よしとしよう。
 しかし、暑いと困るのは、パソコンといった機械の調子が悪くなることである。実はわたくし、なぜか某大学院で院生をやっている。そのため、いろいろと調べたり書いたりするのに、パソコンを持ち運んだりするわけである。学部生のころ、夏にパソコンをリュックに入れ、大学まで通学したが、大学についた頃にはパソコンが熱にやられ、充電したのに残り10%といった状況になったことがある。
 また、大学に院生用の印刷機がある。これが中々のくせ者である。一枚印刷するごとに、ピーピーなり始め「印刷用紙が詰まっています」という。詰まってないのに、である。その度に、印刷機の中身を見るためのカバーを開け、勢いよく閉めると解消されるので、15枚印刷するなら15回その作業をしなくてはならない。夏になると印刷できない冷や汗か、暑さ故の汗か見分けがつかなくなりそうである。
 このことを友人に言ったら、「おじさんもね!人生ピーピー鳴ってるんだよ!」とか、絶妙なジョークを飛ばしてきた。落ち着けよと思う。まぁ、冗談をいっていられるだけの余裕がある。悪いことではあるまい。
 ちなみに、友人は「おじさん」と自らを称しているが、まだ20代中頃である。若いね。私も同じである。類は友を呼ぶのだろうか。私も変だが、周りも変である。とはいえ、なかなかに面白い。人生の不思議さを感じる。

・後半
 さて、そんな愉快な仲間たちであるが、友人伝いに色んな人たちとの交流を見聞きする。友人らがいった大学も様々で、聞いたことのあるところから、私のいっているこじんまりとしたところまで幅広い。先ほどの人生ピーピー友人は、実のところそこまでピーピーしているとは思わない。本を読んだりして、「生きるってなんだろう」という思索をし、「人間性」というのが正しいか分からないけども、深めている。高校以来の友人であるが、明らかに「成長」しているのである(本人は気づいていないようであるが)。
 もちろん、「成長」しないことは悪くない。いつ、どこで「成長」するかは人それぞれであるからだ。ただし、悲しきかな、遠藤周作の『沈黙』を読むとわかる。「成長」しないという意思と、いつかは向き合う時がくるのだろうと感じる。
 そもそも、「学校」という制度自体、近代以降になって工場労働者を生み出す画一的な教育手段として取られた制度である。インダストリーという単語は、調べるとわかるが「勤勉」という意味もある。つまり、「産業」とは「勤勉な労働者」を必要としていることが垣間見える。年齢で区切り、多数の子供を一定の基準に達せられればよいわけである。そうすると、求められた基準からあふれる子供がでてくる。その包摂をめぐって昨今色々問題になっているわけだが。
 しかし、事実として、少なくとも法的な立場から見ると、ある程度の「同質性」が社会の秩序維持に繋がることは自明であるとされる。「自由」も「権利」も保障されるべきなのは確かだ。他方で、共通の意識なるものがないと、意思疎通ができない。つまり、「同じ感覚」という前提が必要となる。同じ言語を話せるからこそ、意思疎通ができるのと同じようなものだ。もちろん、多様性のある社会を目指す必要がある。ではどうすればいいのか。
 問題点を見出してみると、「自由」との兼ね合いから推測されるに問題点は、「どこまで同じであるべきか」という点であろう。自他の境界をどこまで引くのかということである。
 私としては、この問題について、正直答えがわからない。なぜなら、これはひたすらに生身の人間同士の交流をもって、お互いに理解しあっていくしかないと思っているからだ。何か、理論めいたものがあるのかいえば、たぶんない。私は法律を専門にやっているが、法律にできることは、「可能性」を提供することしかできない。もし、憲法といった法律に、何か求めるとするならば、それは難しい気がする。難しい話になるが、法律の「権利」を行使するのは、自分自身である。法律に全てやってもらうと、私自身は法律の目的を達成する手段になってしまう。法律に助けてもらおうとして、私自身が実は法律の「道具」になってしまうかもしれない。立場が逆転してしまう。
 民法を家族主義的なものから個人主義的なものに変えると、よりよくなる可能性はあるが、それでも、やはり先ほどの問題点は消えない。というよりも、この問題点は法というものの「宿命」のような感じがする。実のところ、近代に入ってから、法律の役目は「争いの調停」や「国家権力の抑制」である。そのため、「国家が個人を保障します」というのは、実は非常に厄介な問題なのである。気になる人向けに少しだけ述べておくと、「自由権」と「社会権」は、歴史的には水と油の関係である。平凡社の大百科事典か、だいぶアレだが「現代マルクス・レーニン主義事典」をみると書いてある。アントン・メンガーと森戸辰夫の箇所も調べるとよいだろう。
 余談だが、実は終戦後の日本国憲法制定過程で、民法の改定も議論になっており、当時のお偉いさんが、「急に変えると社会が混乱するから、少しずつ個人主義的なものに変えていこう」という話ではあったらしい。今まで変わっていないが。
 真面目な話過ぎたが、考えるだけで気が滅入る。知ることは面白いが、おそらく永遠に答えはでない気がする。とにかく、その時を生きている人間が、どうにかならんかと、努力をし続けるしかない。多様性のある社会に向けて絶えず考え行動するしかないのだろうか。
 まぁ、「法」の限界とかについて、これから先、書くかもしれないが、温かい目でみといてほしい。どうせ、学問的ではないので、論文になることはないのだから。大学も、狭い世界である。