生きづLABO研究員 活動ブログ

NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しています

このブログについて

このブログは、NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しているサイト「生きづLABO」の活動の一つです。

ikidulabo.com

生きづLABOは、いろんな角度から、社会について、自分について知り、一緒に考える場を作り出しています。一番は生きづらいと感じている人のためのサイトですが、しんどさを抱えている人をサポートする立場の人や、生きづらい社会をなんとかしようと活動している人に対しても、参考になるような情報を発信しています。

この事業は、中央共同募金会の「赤い羽根福祉基金2026年度」の助成を受けて実施しています。

※2025年度は「令和7年度(令和6年度からの繰越分)こどもの居場所づくり支援体制強化事業」の「NPO等と連携したこどもの居場所づくり支援モデル事業」として、こども家庭庁から補助金を受けて実施していました。

生きづLABOでは、生きづLABOの活動に協力したいと思ってくれている人の活動の機会として、研究員制度というものを作っています。登録することで、情報発信、勉強会や交流、企画に参加することができます。(詳しくはこちら

このブログは、研究員の発信の場と、活動の報告のために作成しました。

生きづLABO(運営するNPO法人地域生活支援ネットワークサロン)の活動の一つとして、研究員一人ひとりの発信を尊重しながら、研究員の活動を伝えたいと思います。

俺の生きたい気持ち。

人のつらさを知るのは意味あることだと思う、誰かの立場をほんの一部分だけでも想像できるようになることは意味あることだと思う。
でも最大のデメリットというかリスクがあって、
それは自分のつらさと比べてしまうことだと思う。

このかたはこんなに頑張ってるのに、俺は恵まれてるのに…。
そうやって自分の痛みを否定してしまうと、苦しすぎる。
俺的にはわがままと言われるかもしれないことは承知の上で、「他者のつらさを知る」は余裕あるかたに任せたい。

俺以外のつらさを知るだけでしんどくなる。
「俺はこんなに恵まれてるのに、なんでこんなに死にたいんだ、こんな俺死んだほうがいいって、つらい思いしてる誰かのために頑張らなきゃなのに、頑張ろうと思えない、俺はクズだ、死んだほうがいい…。」

自己否定して苦痛を味わったり、
つらさを知る苦痛そのものを味わうくらいなら、
どんな他者もどうでもいい、俺は俺のために生きる。
誰かに頼って生きる。
そう思う俺自身を肯定はできないが、俺自身を守るためクズになるしかない。
壊れないために壊れるしかないの。

でも、助けないと助けてもらえないなんて、
「助けなきゃダメ」「助けるために努力しなきゃダメ」なんて、そんなことはないのかなと、
生きづLABO所長室の質問回答「Q.他者を助けたいと思えないのに助けを受け取りたい自分が嫌になる
の、生きかたカエルさんの回答を見て感じた。

オンラインで繋がっている友達や仲間との交流を楽しみたいからとか、
好きなアプリを楽しみたいからとか、
少なくとも今は死にたくないからとか、
俺が生きている理由はこんな感じだ、
そして、
俺は、俺のために、俺の未来を諦めたくない。
「頑張れないなら死ね。」なんて直接言われた記憶はないが、
そんな風潮を感じてしまう。
だから、
「うるさい死んでたまるか、俺は生きてやる。」
と、福祉の仕組みに頼って生きるつもりだ。
これが俺の生きたい気持ち。

俺は、
少しでも苦痛なく、
少しでも楽しく、
少しでも穏やかに過ごしたいし、
少しでもマシな選択をしたい。
そして、俺以外も、苦しんでほしくない。

お囃子の音

梅雨も過ぎつつ、夏の陽気になってきて、だいぶ暑く感じるようになってきた。クーラーも欠かせない時期である。そして夏祭りの時期でもある。
 昔、友人と夏祭りに行った記憶が懐かしい。「美しい思い出」「楽しい思い出」というやつである。今は遠くなってしまった。今日も近所で夏祭りのお囃子の練習が聞こえる。なんとなく癒される。地方は既に少子高齢化で、お囃子の跡継ぎも少なくなりつつある中で、若い子を見ると微笑ましい光景と感じる。
 「政(まつりごと)」と「祭りごと」が同じ読みであるのは、確かに納得がいく。「祭り」の時しか皆集まることはないからだ。決め事をするのに、「祭り」は集まるきっかけになるだろう。「儀式」とも色々あるが、細かい話は置いといて。
 他方、祭りというどこか遠い世界の出来事のようでもある。そもそも、世界が遠くにある。ただ一人、違う世界にいる気分の私としては、「祭り」というのは参加するよりも眺めるに限る。精神的に疲労しているのもあるのだろう。
 これから一人で、どうやって暮らしていくのだろうか。結婚とかも、結局なんか自分のことに巻き込んでしまうだけだろうし、友人たちも、普通の暮らしを送っていくんだろうなと、そう思うと、お囃子の音が遠くに聞こえる。羨ましいなぁ、と思いながら、歩んでいくのだろうか。それはそれで、なんか嫌なものである。人生に意味を求めることはできないのはしょうがないけども、そういったものにもまれながら生きていくのは嫌である。せめて、普通の人生であったらなぁ、としみじみ思う。
 お囃子の音、日常なるもの、諦観の果て。

なぜ俺は安楽死の選択肢を求めているのか…?

安楽死の選択肢がほしい。

そう気持ちを表現してたけど、わからなくなってきた。

俺は、死にたくないかたが死を強いられる社会になってまで、
安楽死の選択肢がほしいとは思わない。

俺は…誰かを傷つける罪悪感と自分が傷つく重みに、将来への不安に、お仕事も家事もできず誰かに頼らざるを得ない罪悪感に、
疲れてしまってるだけなのかもな。

疲れた。本当に。
誰かに不幸を強いたくないけど、
誰かのために我慢するのもつらい。

でも、誰かに不幸を強いるのはやっぱりやだ。

俺は、俺含めた皆が、少しでも苦しくなく、少しでも楽しく、少しでも健やかに過ごせる選択肢が欲しい。

俺はお世話されたい。
だから、俺以外もお世話を求めたらお世話を受けられる社会がいい。

俺は守られたい、俺以外も守られる社会がいい。

安楽死の選択肢は欲しいけど、
それで誰かが苦しむのはやだな。
うーん。

そもそも俺以外が何を求めているかなんて、
俺にはわからないけれどね。

「知らないかたが死のうが知らない!」
「大切なかたなんていないもん!」
俺は、とてもそうは言えないんだ…。
苦しい。
それでも俺は、自分が負担と犠牲しか生まない存在だと感じてしまう。
それが全てじゃないってわかってるけど。
自責が止まらない。
苦しい。

俺は…俺が何を求めてるかすら、わからなくなってる気もしてきた。

でもこうやってブログ書いたりとか創作とかの文章化をするのは、
俺自身のためにやってる、それは確かだと俺は感じる。

2026年6月 生きづLABOと研究員活動の報告

2026年6月の生きづLABOの活動報告をします。

6月はあまり大きなことがなかったので、かなり簡易的な報告になりますが、ご了承ください。

7月や8月はもう少し活動報告することがある予定です…!

生きづLABO全体について

6月は目立ったトピックはありませんでした。

研究員活動について

6月はメール不使用での研究員登録希望者が多かった印象です。

研究員ブログの投稿は28件と、5月と比べて倍以上に増えました。

チャットルームの開催は4回でした。

・テーマチャット「依存について考える」

・テーマチャット「小さな幸せ共有会」

・企画会議チャット

・テーマチャット「セルフケアとそのハードルを下げる方法について」

「空気」の「読み方」?

 少し「空気の読み方」について考えてみます。というのも、最近、「空気を読む」ことが多いと感じたからです。この私が空気を読む、これができるとは驚きでした。
 また、「綺麗事」というのも、「空気を読んで」言われることも多いのかなと思いました。
 しかし、それは「読む」ことができるというよりも、実は「読み方」が他人と一致しただけではないか。そう思ったのです。
 一般的に「空気を読む」ことは難しいですし、大方、これを読む方々をそう感じるでしょう。ですが、そう感じるからといって難しい、できないとは私は思わない。
 なぜなら、「空気を読む」場所が合っていないだけだと思うからです。とういのは、「読む」と言っても「読み方」があると思います。「本を読む」「文章を読む」といっても、普段は意識しませんが、「主語」や「述語」に注意して、「誰が」「何を」「した」と読む。つまり「読み方」がある。
 「空気」も実は同じなんじゃないか。私達は「難しい」とか感じるのは、「空気」を認識している証拠です。つまり「理解」はしている。でも、「読み方」が他の人と違うだけではないか。そう思います。
 言い換えれば、要するに「空気」の「読み方」が同じ人同士がつるんでいればよい、ということです。「空気の読めない奴」とは言いますが、他の集団とかに行けば、そのようなことを言う奴が「空気の読めない奴」になるかもしれない。そう考えると、「空気」のコンセンサスなんてものは、多数派の決めることなのかもしれません。
 すなわち、「空気」を「読む」ことや、その「読み方」自体に価値が伴っているとは限らない、ということでもあります。
 「空気を読む」のではなく、「空気の読み方」を考えてみる。それを観察して言語化してみる。そうすると、お互いのすれ違いを減らせるのかもしれません。
 「綺麗事」というのも、ある意味では「読み方」の共有の結果なのかもしれない。つまり、「綺麗事」が共有できないとしたら、その人とはご縁がなかった。そう考えることができると、勝手ながらに思いました。