生きづLABO研究員のブログ

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FTMが自傷行為に及ぶ理由を実体験から考える

当事者を対象にした全国インターネット調査(有効回答数15,064人・2020年の記事)によると、10代FTMの刃物で自分の体を傷つける自傷行為経験率は50%だそうです。

参考:https://www.nits.go.jp/magazine/2020/20200626_001.html

正直、個人的には半分しかいないのかと驚いたのですが、それでもシスジェンダーの10代と比較すると、高い数値であることが伺えます。特に、性別違和が強い人にとっては、思春期はとても大変な時期です。

このようにFTMにおける自傷行為経験率が高いことは明らかになっていますが、その行為に及ぶ理由はあまり公になっていないと感じています。

もちろん人によって理由は様々ですが、小学校高学年から数年にわたって自傷行為を繰り返した自分を一事例にして、なぜFTM自傷行為をするのか、どのようなサポートを必要としていたのかについて書いてみようと思います。

なぜFTM自傷行為をするのか

自分自身、中学校では合理的配慮を受けていたりと、いわゆる周囲のサポートはあったのですが、それでも精神的な不安定さがありました。

特に、小学校高学年は、自分自身の体が変化し、またそれに伴って性別分けが増えたりと、あまり性別を気にせずにいた小学校低学年の頃と比較すると、精神的な負担は大きくなったように思えます。

また幼少期は、子どもから大人の体に変化するにつれて、自分も男性の体になり、周囲も男性として扱ってくれるはずだと信じていましたが、段々そうではないことに気が付き、絶望するようになりました。

インターネットを通じて、トランスジェンダーの身体治療の情報も知ってはいましたが、当時の自分からすると途方もない時間があると感じ、死なないと自分の体からは逃れられないと、希死念慮を抱くようになりました。

加えて、周囲のサポートはあったほうだと思いますが、それでもボーイッシュな女性くらいの認識しかされないこともあり、自分の本当の気持ちは多くの人に分かってもらえないだろうと、人間不信のような状態に陥っていました。

また私が思い悩んだ2020年頃は、LGBT関連の情報が世間に広まりはじめた時期です。しかし世間に情報が広まっているものの、批判的なことを言う人も多い現実に直面し、自分自身は社会から認められない存在だという認識するようになりました。

今思うと、それを悩む必要なかったなと思いますが、LGBT関連の予算に莫大な費用が掛かっているのに、それでも自分自身が生きている意味は何だろう、お金が掛かっているからこそ頑張らないといけないのに、頑張れない/頑張りたくないと、過度な自責をしていました。

その中で、自分がトランスジェンダーだからこそ、周囲に迷惑をかけてしまっているという意識になり、どうにか女性として社会に適応できないか想像し、それが叶わなくて自責するなど、とにかく自責し続けるような日々でした。

また外的要因だけではなく、自分は男性だと認識しているのにも関わらず、女性としての体で24時間365日、生活し続けないといけないということも大きな負担になりました。

自分自身の体が意図せず女性らしく変化していく、あるいはもっと変化するのではないかという不安に襲われ、この体だからこそ自分はシス男性のように扱われないのだと、自分の体に嫌悪感を抱くようになりました。

一時は、自分の体に感覚があること自体も気になってしまい、たとえば寝る前に服や布団が当たっている感覚を通じて「自分は今、布団に当たっている感覚を感じるから、この体の意識があって、つまりこの体からは逃れられない」と、当然のことに絶望し続けました。

自分の声が嫌だから首を締めてしまったり、胸があるのが嫌だからその部分をカッターで傷つけたりと、リストカットのみならず、自分が気持ち悪いと感じる部分を傷つけることもありました。

このように、他者から自分の気持ちを理解されないという外的要因と、自分の体が気持ち悪くてたまらないという内的要因という2つのつらさがあり、精神的な不安定さや不眠に悩んでいました。

今でこそ、これだけ言語化できるようになりましたが、当時は何がつらいのかも上手く把握できておらず、自分の気持ちを安心させたり、あるいはそれによって眠れるようにするために、自傷行為を繰り返していました。

どのようなサポートを必要としていたのか

トランスジェンダーの子どもというと、何らかの支援が必要と言われることが多く、それは半分正解なように思えます。

しかし自分自身「トランスジェンダーでも大丈夫」「自分らしくでいいんだよ」のように励まされたり、支援内容や相談先を提示されたりすることを疎ましく思い、やはり自分は周囲とは違うんだと孤立を深めていったように思えます。

私は合理的配慮として、入学前から学校と話し合い、制服の変更や多目的トイレの使用、保健室で着替えさせてもらうなどの対応をしてもらっていました。

特に、多目的トイレは生徒は基本利用禁止、また他の生徒は保健室で着替えることもないと思うので、自分だけ違うということがつらかったです。

そのため非現実的かもしれませんが、実態は違っていたとしても、多目的トイレがいい人は使ってもいい、性別分けスペースで着替えたくないなら保健室でも良いと大々的に言ってほしかったです。

今でこそ、自由に制服を選べる学校が増えていますが、まだまだ学校教育における性別分けの場面が多いことは疑問に思います。

元々、性別分けの場面が多いからこそ合理的配慮が必要になると思います。私がほしかったのは積極的な支援ではなく、根本的な性別分けを減らすこと、そしてトランスジェンダーを特別扱いせず、普通に扱うことなのかなと思いました。

今、不要な性別分けを減らす方向に進んでいると思うので、これから思春期のトランスジェンダーが過ごしやすい社会になればいいなと思います。

トランスジェンダーの大学進学における合理的配慮

トランスジェンダーの大学での合理的配慮について情報があまりなかったので、2024年に、気になっている大規模私立大学の社会科学系学部、複数校に問い合わせしたFTMとして、その情報についてまとめておきたいと思います。

(合理的配慮への対応は日々進んでいるので、ここで取り上げたケースも、現在はもっと寛容に対応されている可能性もあります。)

## 大学によって合理的配慮は様々
私自身、通信制高校に在学しているのですが、性別違和があるため、大学進学へは不安がありました。そこで、どのような合理的配慮をしてもらえるのか調べてみると、東京大学など、多くの大学で合理的配慮についてまとめたガイドラインがあることが分かりました。

また最近は、不要な性別欄をなくしたり、オールジェンダートイレをつくるなど、性別違和がある人も大学生活をおくりやすいよう工夫している大学もあるそうです。

それらの事例を見ながら、どのような支援があれば大学生活をおくりやすいのかについて考えました。

私は、好きではない体育が必修ではない大学に進学し、以下の合理的配慮を受ければ問題ないだろうと思ったので、これらを実現することは可能か、そのためにどのような手続きが必要なのかについて問い合わせをしました。

* 大学の授業内では下の名前で呼ばないでほしい
* 着替えやトイレは性別分けのないスペースを使用させてもらう
* 性別分けせざるを得ないケースは事前に相談してもらう

問い合わせした結果、大学によって対応が様々なことが分かりました。また具体的な内容をメールで伝えてくれるだけではなく、オンライン面談で詳しく相談に乗りましょうかと提案してくれる大学もあり、とても有り難かったです。

* 診断書不要で、こちらの意見はできるだけ沿ってくれる
* 診断書不要だが、通称名を使用する際には保護者の同意が必要
* 診断書必要だが、こちらの意見はできるだけ沿ってくれる
* 本人とかかわりがあった医師や先生からの意見書が必要(単独で合理的配慮を受けることはできない)

結果として、明確な志望校が決まっていなかったので、合理的配慮について積極的な大学のほうが安心して進学できるだろうと思い、診断書不要で、こちらの意見はできるだけ沿ってくれるような大学に絞り、具体的な志望校を検討することにしました。

(ちなみに、大学の学生数ランキングがTOP10に入るような大学でも、合理的配慮を支援するのは年数名とのことだったので、特に小規模な大学だと、そもそも大学として前例がないケースもありそうです。)

## トランスジェンダーの大学進学における課題
ここ数年で、トランスジェンダーというものの知名度は随分と上がりましたが、現在も、診断書不要で対応いただける大学ばかりではないなど、トランスジェンダーの大学進学における課題は多々あります。

診断書を発行してもらうプロセスとして、特にガイドライン準拠の病院であれば、以下のような課題があります。(必ずしも、この課題があるわけではありません)

* 保護者が幼少期の情報を提供する必要がある
* 診断するまでに半年や1年など長期的に掛かる
* 地方の場合、診断してくれる病院がそもそもない
* その病院へアクセスするために紹介状が必要(特に大学病院)

そのため家族とは性別違和について話したくなかったり、家族からは反対されているものの、大学進学をきっかけに、自認している性別での生活をおくろうと考えている方には難しい方法となります。

また困りごとがあるからこそ合理的配慮という形で支援してほしいのに、その支援を求めるために、医師からのお墨付きとして診断書を発行してもらい、それを大学に提出しないと支援してもらえないというのは、個人的に納得がいかなかったです。もっと困りごとに着目してほしいと思ってしまいました。

私自身、いいなと思っていた大学を、合理的配慮にあまり積極的ではないことを理由に諦めることにしたので、はやく診断書なしで積極的に合理的配慮を受けられるようになってほしいなと思います。

ここ数年で、新しく合理的配慮のガイドラインを作成した大学も多いので、今後に期待です。また問い合わせをすることによって、大学側もニーズがあることが分かり、合理的配慮をしようと思ってくれるかもしれません。

大学進学を考えているトランスジェンダーの参考になれば嬉しいです。

現代ニート学事例1(1)ニート爆誕

父親はよく言えば放任主義、悪く言えば無関心、母親はよく言えば献身的、悪く言えば過干渉、世間知らず、そんな親の元で育ち、ニート製造の教本のような自分の人生の話。

両親の不仲からくる家庭不和で絶えずピリついた空気が充満した空間で育った。
怒鳴り声やすすり泣く声が耳に入ってくる中での生活はとても緊張を強いられていたと思う。

ハッキリと自覚はなかったが、心のどこかで「親の不仲は自分のせいなのか?」と思っていたのと同時に常に親の顔色を窺って日々を過ごしていた。これは後になって、「周囲の人の顔色を窺う」に無事アプデされることとなる。常に周囲の顔色を確認するために今でも首の可動域はフクロウぐらいあると思う。

所謂、「普通」とされるルート、小学校→中学校→高校→大学と進んでいったものの、家庭での緊張からくる鬱屈した部分が出ていたのか、どの年代も溶け込みきれていたかと言われるとそうでなかったように思う。

友達が全くいなかったわけではなく、それぞれの年代で世に言うカーストとやらのトップのグループには属していたが、みんなといる楽しみを共有しきれずにどこか斜に構えて輪に加わっていた。傍から見ていると「馬鹿みたいにはしゃいでアホくさ」と一緒にいる友達すらどこか馬鹿にしているスカしたやつのように映っていたと思う。我ながら嫌なやつである。

常に親の顔色を窺い、場を取り繕うことに心血を注いできた影響からか「子どものように興味に率直であるより、大人っぽくいる自分がかっこいい」と当時の自分は思っていた。これは後に「あのときの自分は本当はこうしたかったんだな、その瞬間の楽しさや経験を能動的に享受しようとしていた周りの友達が羨ましかったんだ」と気づく。

そうした思春期・青年期を過ごしていき、時は流れ大学生活も佳境の3回生、4回生。全くと言っていいほど馴染めていなかった大学だが、一人で講義を受けていようがぼっち飯を食っていようが授業だけは出席して単位だけはとれていた。そして始まる社会人として爆誕するための通過儀礼、就職活動。

サークルだのバイトだの飲み会だのでろくに講義にも出席せずに単位も足りていない同級生達が面接でアクロバット自己PRを披露し、とてつもない「取り繕い力」を見せつけてバンバン内定を取っていくのを目の当たりにしていく中、単位は取れて就活の時間もたっぷり取れていた自分は説明会や一次面接を受けていく中で一つ大きなことに気が付いた。

「自分には紹介できる自己が何もない。」

そう、自分には他人に伝えられる確固たる「自分」や「自分とはこういう人間だ」と発信できるものが何もなかったのだ。

この事実に気づいてからというもの、働いている自分、内定をもらう自分、就活を続ける自分を全く想像することが出来なくなる。

最初は「大学4年間での過ごし方の差が出たのか?」などと呑気に考えていたが、よくよく考えてみるとそんな感じでもないことに気づき、そこで初めて「自分が何者であるか」という要素や「自我」は過去の経験や何を感じてどんな気持ちを抱えて、時にそれを表出させて生きてこられたかに影響されるということをハッキリと自覚することとなった。

そんなこんなで遊びほうけていた同級生が内定をとりまくっている、自分はというと自分が何者なのかを語ることさえ全くできずに、ただ面接の場で金魚のように口をパクパクすることしかできなかった事実を受け止めきれずに膝から崩れ落ち、ここで自分の就活生活は終わりを告げることとなる。

そんな自分の負け確イベントのことなど露知らず、ゼミの教授からは「この先の進路はどうするんだ?」とことあるごとに聞かれ、話し合いの場を何度も持たれたが、「何者でもない自分」というとてつもない質量を持った事実に圧し潰されていた自分には最早話せることは何もなく、「公務員を目指します」や「専門に入りなおして資格を取ります」などと適当なことをのたまってその場をやり過ごす日々が続いていた。

しかし相手は「教授」という肩書と権力を持ったタイトルホルダー。そう簡単には屈しない。自分のゼミの内定率を落とすまいとあの手この手でこちらを蟹工船に乗せようとしてきたが、就活を始めるにあたって3年続けたバイトも辞め、就活の場で自分が「持たざる者」であることを知って、この時既にニートとして覚醒しつつあったこちらの堅牢な外殻を突破しきることはできず、程なくしてこちらの勝利という形で土を舐めることとなる。大人とはつくづく外聞を気にする生き物であることを知った。

単位は足りていたので、残すはゼミと卒論であったがモチベーションなどまるでなく、小学生が夏休み終了1日前に書き上げた宿題のような卒論でかろうじて単位をもらい「ただ大学に4年間通っただけの人間」として特に思い出もない通いなれたキャンパスを後にすることになる。

春休みも終わり年度が変わって4月になり、同級生たちが新しく爆誕したソルジャーとして社会という戦場の最前線にドナドナされていく中、自分はというと新卒切符や将来への担保を全て投げ捨てた既卒大学生となった。

世に数十万人いるとされる「ニート」がこの世にまた一人爆誕した瞬間でもあり、22年前に裸で生まれ落ちて産声をあげて以来の二度目の産声である。ニート0歳児、一年目の春であった。

【死にたいを知る】書評:高橋和巳『新しく生きる』

紹介する本:高橋和巳『新しく生きる』三五館、2001年

1.はじめに

私は10代から20代にかけて自殺未遂を繰り返していました。今はカウンセリング治療のお陰でかなり落ち着いていますが、希死念慮に苛まれる苦しみや、そのなかで気持ちを立て直すことがどれほど難しいかを、いやというほど味わってきました。

以下に紹介するのは、私が精神の危機を迎えていたときに繰り返し読み、心の支えにしてきた本です。著者は愛着障害やカウンセリングの技法に精通する精神科医高橋和巳氏です。高橋氏は多くの本を出版していますが、『新しく生きる』は「自殺」というテーマに深く踏み込んだ、隠れた名著です。

私は本書を読むことで、「死にたい」と思うほど強い葛藤が作られる仕組みと、この葛藤を解きほぐしうる確かな方法を学びました。それらは希死念慮の対処にとどまらず、人間の心の不思議さ、奥深さに触れていると思います。精神的苦痛の悪循環に閉じ込められ、自分を制御できない無力感と、世界から断ち切られたかのような孤立感に打ちひしがれているとき、この苦しみにも普遍的な意味があると思えたことは大きな慰めになりました。

2.本書の概要

「枠」と「自己受容」

人の心の苦しみや悩みは、自分を嫌ったり、責めたりすることから始まって、「死にたい」と思う気持ちのなかで一つのピークを迎えます。そのような葛藤は、なぜ私たちの心に生まれてくるのか。そしてこの苦しみは、どうすれば和らいでゆくのか。高橋氏はこの切実な問いを、心のこもった、平明な言葉で解き明かしてゆきます。

本書のキーワードは「枠」と「自己受容」です。他者との信頼関係や社会との繋がりを維持するために、つまり生きてゆくために、私たちが半ば無意識に人生のなかで作り上げてきたものが「枠」と呼ばれます。それは「〇〇すべき」、「〇〇しなければならない」のような、多くの義務を課してきます。

枠は私たちが安定した生活を営むために必要なものですが、同時に私たちの感性や思考を型にはめ込んでしまいます。枠が強すぎると、私たちは自分が感じていること、思っていることを、ありのままに認められない。また、頑張っても枠を守れないときには、自分を嫌いになったり、責めたりしてしまう。逆にこの枠の外側に出て、感じていることをありのままに感じることができれば、自分を制約している枠の存在を知り、その拘束から自由になることもできるようになります。このプロセスが、「自己受容」と呼ばれるものです。

本書を通じて、人が自己自身を受け止めることで悩みを乗り越え、人生を変えてゆく過程が描かれています(「枠」をはずす→「枠」を知る→「枠」から自由になる→「枠」の外へ踏み出す)。

「死にたい」を知って変わる

本書の特徴は、私たちが生きるために作り上げた「枠」が、死を希う気持ちを生み出してゆくという逆説的なプロセスを、ひたすら丁寧に、分かりやすく辿っている点にあると思います。

希死念慮は単なる「治療されるべき、不健全な、誤った思い」ではありません。「死にたい」という気持ちは、誰にでも生じうる、自然な心の動きです。むしろ、生きる意欲によって支えられ、作りだされているとさえ言えます。この不思議な状況を、高橋氏は次のように言い表しています。「こうして私たちは感情を正直に追ってゆくと、『死にたい』と思うのは、『生きなければならない』と決めているときだけである、という逆説に気づくであろう。」

「死にたい」という気持ちすら受け容れてゆく自己受容の力は、私たちの生き方を変える可能性を秘めています。自分の枠を知り、枠を作ってきた自分も、枠からはみ出てしまう自分も受け容れることによって、一度は嫌ってしまった自分を、もう一度好きになることができます。

それは、単に元の自分にもどるという意味ではありません。自分の枠が見えることによって、ほかの人の枠も、枠からはみ出してしまう姿も見えるようになり、他人のことを愛しいと思う気持ちさえ湧いてきます。

このように世界の見方が深められると、同じものを見ていても、今までは見えなかった陰影や光彩が目に入るようになります。枠の外と内を行き来するありのままの自分を認めることによって、ものの見方が変わる可能性があるのです。今のままの、ありのままの自分を受け容れるからこそ、「新しく生きる」ことができる。ここに、人の心をめぐるもう一つの逆説があります。

3.補足

本書は絶版のため、現在は中古でしか入手できません。再版を強く希望しますが、入手しやすくて読みやすい、ほかの本も紹介しておきます。

・代表作と言える『人は変われる』(ちくま文庫、2014年[三五館、2001年])では高橋氏の中心的なテーマが論じられており

・その最先端の考察は、新刊の『親は選べないが人生は選べる』(ちくま新書、2022年)で読むことができます。

愛着障害については『消えたい』(ちくま文庫、2017年[筑摩書房、2014年])、『「母と子」という病』(ちくま新書、2016年)などがあります。

・カウンセリング技法については『精神科医が教える聴く技術』(ちくま新書、2019年)があり、心理療法の専門家だけでなく、心理療法を利用する当事者やご家族にも参考になると思われます。

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