生きづLABO研究員 活動ブログ

NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しています

「綺麗事」の狭間で揺られて・・・

 「相手のことを考えよう!」「自然環境は大切に!」というような「綺麗事」は多いと思います。一方で、公害問題や、様々な事件のニュースを見ると、「綺麗に見えない現実」の姿を目撃することでしょう。身近な所でも、感じることもあるでしょう。
 私も「なんかなぁ」と感じることがあります。綺麗事を言って騙そうとする人も見ました。綺麗事に対して一歩下がって見る姿勢が大事です。そこで、感情の整理も兼ねて、私の感想を淡々と書いてみようと思います。私の感想もまた、一歩下がってお読みください。

 よく、日本社会において「本音と建前」という区別があります。「綺麗事」は「建前」に入ると思っています。海外では本音で話すということと比較されることもあるでしょう。ですが、本音が多すぎて、アメリカでは色々とガタがきているようにも思います。かたや、日本は建前ばかりです。
 私個人としては、「ほどよい中間」がないかなと思います。例えば、人によるかもしれませんが、「昨日何食べた?」とか「今度どこ行く~?」とか、言ってしまえば意味のない会話を友人とかとします。実は、これ意味がないのではなく、人間関係の潤滑油のような役割をしていると思っています。というのも、例えば歯車同士が回るときに、オイルとかがないと擦り減っていくことでしょう。人間関係でも同じようなものだと思っています。建前も同じようなもので、ある種潤滑油のようなものだと私は思います。本音ばかりでは、疲れてしまうでしょう。
 とはいえ、言うのは易しいですが、行うとなると難しいことと思います。現実的に、十人十色ですから、どこまで本音で、どこまで建前でOKなのかは人によるからです。
 ではどうしたらよいのか。私個人の意見ですが、無理に合わせる必要はなく、自分のもつ基準に合う人、つまり自分の許容できる本音と建前のラインとマッチする人と友人とかになればよいと思います。もちろん、合わない人もいます。それは、一定の距離を保つことで、自分に負荷がかからないようにするのが一番です。なんというか、相手のことはそこまで気にせず大丈夫です。まずは自分自身の心配をするのが最優先ですから。
 このような感じで私は考えています。
 ところで、建前として綺麗事が自らの血肉となるのか。綺麗事が中身のある綺麗事になるのか。場合によると思っています。建前とはいいましたが、「嘘も百回言えば本当になる」とかいわれるように、私がそうなのですが「私は研究者に向いている」と、そんなことはないのに思い続けていたら本当に大学院に進学してしまった、なんてこともあります。もちろん、全ての場合がそうとは限りません。本人の性質といった、様々な要因が重なって、はじめて綺麗事が中身のある綺麗事になると思っています。要は運ですね。
 ただし、綺麗事にも効用はあるとは思います。例えば、世の中が色々と大変なことがあるからこそ、綺麗事に向かって前進する人もいます。テレビとかSNSでは声の大きい人に焦点があたりがちです。そのような人を見ると、綺麗事を見ても怪訝に感じるのは当然でしょう。一方で、日の当たらないところで少しずつ綺麗事が現実に起きるように地道に活動している方がいることを忘れないことは、大切だと思います。