生きづLABO研究員 活動ブログ

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「人間」と「動物」の違いとは?

「人間から属性をはいだら?」という問いはとても興味深い、哲学的問いです。古来、いってしまえば紀元前のギリシアの頃から、ずっと考え続けられてきた問いであると、私は勝手ながらに思います。(編集注:研究員内で、こんな記事が読んでみたいというブログテーマを募集しており、その中に「人間から属性を剥いだら何になるのか。何処までを属性とするのか」があります)
 この議論をはじめる前に、「哲学の考え方」について簡単に考えてみたいと思います。というのも、おそらくここの読者の方々は「生ける哲学者」であると思います。その分、鋭い視点をお持ちだと思います。ここにさらに、「自分の思考のくせを言語化する」と、なお鋭く、冷静に見られるだろうなと勝手ながら感じております。そこで、私の知っている限りですが、言語化しやすくするために、少し哲学の分野でなされている「方法」をはじめに紹介しようと思います。ただし、私個人の見方ですので、そこはご了承ください。

・対立項をつくる
 哲学は、様々な哲学者の論で溢れていますけど、要は「昔の哲学者を批判する」ことをしているわけです。その時に、哲学者たちがしているのは、「昔の哲学者の言い分の要点をつかみ、それに対立する考えを提示する」ことです。例えば、「赤リンゴは美味い」という哲学者がいたとしましょう。それに対して新たに理論を立てるには、「赤リンゴは不味い」というか、「赤リンゴより美味しいリンゴがある」と述べることが必要です。そのために、「青リンゴは美味しい」という理論を、他の哲学者が立てたとしましょう。このとき、「赤リンゴ」対「青リンゴ」という対立が生じます。
 さて、この対立が生じるとき、大切な作業?があります。というのは、「何を基準に対立させるものを考えるのか」です。「赤リンゴ」に対立するのが「青リンゴ」であることに、おそらくあまり違和感はないと思います。それは、私のほうで「そのほうが分かりやすい」と判断したためです。実は、別の対立もつくれます。例えば、「赤リンゴは不味い」という対立項です。
 「赤リンゴは美味しい」という理論があったときに(正確には「命題」と呼ぶほうがよいかもしれませんが、とりあえず「理論」と呼んでおきます)、この理論から2つの要素を見出せます。読んで字のごとくですが、「赤リンゴ」と「美味しい」です。つまり、「赤リンゴ」に対して対立項をつくる方法と、「美味しい」に対して対立項をつくる方法が考えられます。どの要素を基準に対立項をつくるのか、実は論じたい内容によって異なります。
 以上が、簡単ですが、哲学者がやってきた「考え方」?というものです。これを「人間の属性」にも当てはめてみます。
 なお、余談ですが、ヘーゲルという哲学者がいます。その哲学者は3つの項を用意しており、非常に厄介です。一般的には2項対立の形ですが、色んな意味で有名ですので、覚えておいて損はないですね。

・人間の属性
 古くからなされている人間の「属性」を見つける考え方として、「動物との違いは何か」というものがあります。「人間」対「動物」ですね。人間にあって、動物にないものを比較してみようというものです。生物学的に、遺伝子から探る方法もありますが、哲学的に考えてみます。
 大方、「理性」というものがよく、人間と動物の違いとして挙げられます。「理性」というと、なかなかイメージしづらいと思います。実際、この「理性」の意味は、時代によって変化してきました。そのため、厳密に1つの意味に決まっているとは、私は思っていません。論じる人によって異なり、大雑把なイメージがある、そんな感じです。そのため、とりあえずは最低限の意味として、「物事を予測して行動することができる能力」とでも定義しておきます。なるほど、これなら人間の特徴として、動物と違うと思うでしょう。
 しかし、動物の中にも危険を察知して避ける行動をとることもあるでしょう。そうすると、この「理性」は人間の特徴といえないかもしれません。
 では、昔の人はどうしたのか。それは「道徳」というものを持ち出しました。「倫理」なんて呼んだりします。道徳的な範囲で、人間は「物事を予測して行動することができる」としたのです。そうすると、先ほどの「理性」の定義を改めると、「道徳に則った行動をすることができる能力」と再定義し、これを人間の特徴としたわけです。
 ただし、この「道徳」とは何でしょうか。もし、いわゆる社会的な習慣としたら、「老人に椅子を譲らない」といった行為は、非道徳的として「人間でない」ことになってしまうのでしょうか。
 おそらく、「人間ではない」とまで結論付ける人はいないでしょう。流石に極端すぎます。良心的な人なら「まぁ、そんなときもある。人間だもの」と温かい目で見守ると思います。
他方、社会は一枚岩ではないので、いわゆる「常識外れ」であれば軽蔑等の非難の可能性はありますし、法律に反せば罰を受ける可能性も否定できません。
 そう考えると、結構「人間」の属性とは、なかなかハッキリしないものなのかもしれません。何かキッチリした定義をすることが難しい。それが人間と、私は考えていて思います。
 もちろん、学問としては言葉にキッチリした定義を与えなくてはなりません。そのため、どうしてもこのような極端な例外の可能性が、「論理的に」浮かぶのです。そこをつき、「理性」を基準にしてはいけないとする批判も起こりました。一方で、何かをするには基準が必要になります。しかし、完璧な基準は存在しない。この矛盾がどうしても生じてしまう。なかなか難しいと思います。
 ちなみに、ハンナ・アーレントという方(哲学者というか、政治哲学者というべきか悩みます)が、曖昧な人間の姿を定義づけようとしました。『人間の条件』や『活動的生』として翻訳本が出ています(両方とも同じ本です。翻訳者によって訳が異なるため、異なるタイトルになっています)。「理性」については、カントが代表的な哲学者として挙げられます。ただし、とても難しいというか、ヨーロッパのキリスト教的観念が入っているので、それを理解した上でないと、大変なところであります。しかも、カントの後にヘーゲルが登場し、さらに「理性」についてややこしくなります。専門家の人ですら今だに「よく分からない」と言っているのを聞きました。

 長々となってしまいましたが、人間の属性を考えると、実は大昔から考えられていることがわかります。学問としてやるのはともかく、自己理解を深める上では、様々な人の考えを知り、どう自分なら考えるのかを深めるきっかけになれば幸いです。