尊厳って大切なんだな、と最近思う。
人の尊厳。
人の存在そのものを尊ぶ。
人は誰しも、生きているだけで素晴らしい。
そういう感覚を思う。
心理的な気づきでもなければ、論理的な正しさでもない。
信仰のようなものだ。
声高に言うことでもない。
正確に説明できるものでもない。
ただの個人的な体験だ。
ひとつのナラティブなのだろう。
生きづらさと付き合ってきた自分が、そんな所に落ち着きはじめている。
生きることが苦しくなるなかには、自分は生きるに値しない、という感覚がある。
他者からの否定的な評価を受け、自分はだめだと責めている。
同時に他者に対し、あの人のせいで自分が傷ついた、と恨みもする。
自責と自罰の思いに沈み、同時に他責と他罰の念が澱のように溜まってゆく。
それは、自分の尊厳を、そして他者の尊厳をも、落としていたのかもしれない。
他者から肯定的な評価をもらっても、自分なんかはそれに値しない、と感じもする。
善意で受けた行為にすら、詫びるような思いを抱く。
自らの無能を恥じ入り、他者への申し訳なさに身を縮める。
ぼくはだめなにんげんです。
そう思うとき、原点は他者にあった。
絶対的な正しさを持つ他者に対し、駄目な自分は負の座標に位置した。
あるいは普通という標準原器が乗った天秤の、相対する皿に自分を乗せた。
自分の無能と罪業が天秤を重く低く傾け、普通という存在を高く遠く見上げさせた。
自分には、子供がいる。
僕とよく似た特性を持った子だ。
楽しげに走り回る子供が、幼稚園では問題児のように扱われていた。
子供を通して、生きづらさのありようを、客体として見るようになった。
自分自身の生きづらさを手掛かりに、他者の抱える生きづらさについて考えた。
社会の生きづらさを、少しでも和らげたいと願った。
他者との能力の差異が、マイノリティに生きづらさを感じせしめる。
人がありのままで生きられる社会の在りようとは何か。
ありのままの自分を、そのままに尊重する。
それを是とできる関係の在りようを模索する。
そんな思索を続けるなかで、人の尊厳を信じるだけの領域が、僕の人間観のなかに生まれたのかもしれない。
人には価値がある。
人は生きているだけで素晴らしい。
つまり、自分には価値がある。
自分は生きているだけで素晴らしい。
そう信じることは、原点を自分自身へと取り戻させた。
己を尊厳ある存在として、こころの盤面の中心に据えさせた。
自分の在るがまま、そのままを、真ん中に置く。
能力や実績に対する評価は、ただの評価だ。
それとは関係なく、自分は尊厳あるものだと信じられる。
他者の存在も、敬意をもって尊重できる。
そのとき、他者から受ける恩恵も、ただ、ありがたい、と受け取れる。
他者とのつながりを、よろこぶことができる。
たぶんこれは、信仰やスピリチュアルの領域に踏み入れた話だと思う。
人には尊厳がある。
その感覚は、多くの宗教的なものにも織り込まれてきたのではないだろうか。
キリスト教であれば、人が神の子として作られた、という物語かもしれない。
神道なら、八百万の神、森羅万象への敬意としてあらわれる。
仏教では大乗仏教になるが、全ての存在に仏性が宿る、と説かれている。
釈迦自身の言葉でこそないが、人々が必要とした自己の尊厳を、後の時代が補ったようにも思える。
科学の発展とともに宗教的物語が色褪せるなかで、法規的に人権という概念が取り入れられた。
それは、社会の規定と保障として機能している。
そして同時に、全ての人に尊厳がある、と信じることを、国家として宣言した言葉のようにも読める。
僕らの存在には、一人ひとり、一つひとつ、尊厳がある。
誰しも、ただ生きるなかで、自身の尊厳を感じられ、信じられる世の中であってほしいと願う。