生きづLABO研究員 活動ブログ

NPO法人地域生活支援ネットワークサロンが運営しています

尊厳について

尊厳って大切なんだな、と最近思う。
人の尊厳。
人の存在そのものを尊ぶ。
人は誰しも、生きているだけで素晴らしい。
そういう感覚を思う。
心理的な気づきでもなければ、論理的な正しさでもない。
信仰のようなものだ。
声高に言うことでもない。
正確に説明できるものでもない。
ただの個人的な体験だ。
ひとつのナラティブなのだろう。
生きづらさと付き合ってきた自分が、そんな所に落ち着きはじめている。

生きることが苦しくなるなかには、自分は生きるに値しない、という感覚がある。
他者からの否定的な評価を受け、自分はだめだと責めている。
同時に他者に対し、あの人のせいで自分が傷ついた、と恨みもする。
自責と自罰の思いに沈み、同時に他責と他罰の念が澱のように溜まってゆく。
それは、自分の尊厳を、そして他者の尊厳をも、落としていたのかもしれない。

他者から肯定的な評価をもらっても、自分なんかはそれに値しない、と感じもする。
善意で受けた行為にすら、詫びるような思いを抱く。
自らの無能を恥じ入り、他者への申し訳なさに身を縮める。

ぼくはだめなにんげんです。
そう思うとき、原点は他者にあった。
絶対的な正しさを持つ他者に対し、駄目な自分は負の座標に位置した。
あるいは普通という標準原器が乗った天秤の、相対する皿に自分を乗せた。
自分の無能と罪業が天秤を重く低く傾け、普通という存在を高く遠く見上げさせた。

自分には、子供がいる。
僕とよく似た特性を持った子だ。
楽しげに走り回る子供が、幼稚園では問題児のように扱われていた。
子供を通して、生きづらさのありようを、客体として見るようになった。
自分自身の生きづらさを手掛かりに、他者の抱える生きづらさについて考えた。
社会の生きづらさを、少しでも和らげたいと願った。

他者との能力の差異が、マイノリティに生きづらさを感じせしめる。
人がありのままで生きられる社会の在りようとは何か。
ありのままの自分を、そのままに尊重する。
それを是とできる関係の在りようを模索する。
そんな思索を続けるなかで、人の尊厳を信じるだけの領域が、僕の人間観のなかに生まれたのかもしれない。

人には価値がある。
人は生きているだけで素晴らしい。
つまり、自分には価値がある。
自分は生きているだけで素晴らしい。

そう信じることは、原点を自分自身へと取り戻させた。
己を尊厳ある存在として、こころの盤面の中心に据えさせた。
自分の在るがまま、そのままを、真ん中に置く。

能力や実績に対する評価は、ただの評価だ。
それとは関係なく、自分は尊厳あるものだと信じられる。
他者の存在も、敬意をもって尊重できる。
そのとき、他者から受ける恩恵も、ただ、ありがたい、と受け取れる。
他者とのつながりを、よろこぶことができる。

たぶんこれは、信仰やスピリチュアルの領域に踏み入れた話だと思う。
人には尊厳がある。
その感覚は、多くの宗教的なものにも織り込まれてきたのではないだろうか。
キリスト教であれば、人が神の子として作られた、という物語かもしれない。
神道なら、八百万の神、森羅万象への敬意としてあらわれる。
仏教では大乗仏教になるが、全ての存在に仏性が宿る、と説かれている。
釈迦自身の言葉でこそないが、人々が必要とした自己の尊厳を、後の時代が補ったようにも思える。
科学の発展とともに宗教的物語が色褪せるなかで、法規的に人権という概念が取り入れられた。
それは、社会の規定と保障として機能している。
そして同時に、全ての人に尊厳がある、と信じることを、国家として宣言した言葉のようにも読める。

僕らの存在には、一人ひとり、一つひとつ、尊厳がある。
誰しも、ただ生きるなかで、自身の尊厳を感じられ、信じられる世の中であってほしいと願う。